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クリスマスに一言
今年の冬至は12月22日。「冬至」は 皆さんがご存知の通り、一年のうちで最も昼の時間が短い日です。
冬至までの間、少しづつ日没が早くなるこの季節、寂しいような、悲しいような気持ちになりませんか? 夜が長いほど、暗闇が深いほど、暖かな朝の光が待ち遠しいのではないでしょうか。

聖書に、このような言葉があります。
  「闇の中を歩んでいた民は
   大きな光を見る。」

この「大きな光」とは、イエス・キリストのことです。悲しみに暮れる人、寂しさに涙する人、まるで明けない夜の中にいるような思いを抱いている人々の心に、イエス・キリストは、朝の光のような輝かしくまた暖かい光を与えてくださるのです。
私たちに、大きな暖かい光を与えるために、イエス・キリストが私たちの世界に来てくださったことを記念するのがクリスマスです。

決して、カップルのイベントではないのですよ。
クリスマスは、お近くの教会で過ごしてみませんか。
(片岡集会のクリスマス集会は既に終了していますが…ネットで検索すれば、皆様それぞれの周辺の教会で、きっと何か行われていると…思います。)


クリスマス・トリビア
「冬至とクリスマス その1」

江戸時代、長崎出島のオランダ商館に出入りするオランダ人たちは、幕府のキリスト教禁令のため、クリスマスを祝うことができませんでした。そこで、「オランダ冬至(正月)」という名目にして、クリスマスを祝っていたそうです。
キリスト教禁令下にあっても、オランダ人達はイエス・キリストの降誕をお祝いしたかったのですね。
(参考:Wikipedia)

JUGEMテーマ:クリスマス



author:sa-ru(会堂管理人 おさる), category:ゴスペル(福音), 18:32
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共におられる神
こんにちは、とんとんです。
明日は、クリスマスですね。

正確に言うと、12月25日は、主イエス・キリストの誕生日ではないのですが、このところ、とんとんは、いつも以上に主イエス・キリストの誕生について、考えています。

おさるやこざる、そして、ことんとんが側にいて、その息づかいや、体温を感じながら、一緒に生きていける毎日は、ただそれだけで幸せです。
小学2年生の、ことんとんは、まだ、時々、抱きついてくれます。
そんな時は、とんとんもムギュ〜っと抱きしめます。
ことんとんはまだ気がついていませんが、実は、この「ムギュ〜」で、ことんとんが、とんとんをどんなに喜ばせてくれているか…
いつか、ことんとんが、お母さんになった時にわかるでしょうね。

ほぼ同じことの繰り返しの毎日。ささやかな幸せ…。

約2000年前、貧しい夫婦に一人の男の子が産まれた。
この赤ちゃんの誕生に際しては、他の子達とは違うことがいくつもあったけれど、でも、この男の子は、他の子ども達と同じように成長していく。
ただ一点だけ違うのは、心に悪い思いは全く無いこと。

彼は、どんな生活をしていたのでしょうねぇ。

彼が生活したのは、人里離れた荒野の洞穴ではない。彼は、人々の中で、人々と関わりながら生活していた。
高い所から、人々を見下ろすのでなく、人々のすぐ側、手の届く所で生活していた。
彼は、人となられた神―

その声を聴き、その姿をじっと見、手でさわったと、ある弟子は、聖書に記しました。
「神」と言えば、何か高い所から人間を見下ろす存在のように思えます。
しかし、その高いお方が、私達の側に、すぐ側に来てくださったということは、考えても考えても理解しきれないものです。
このお方が友と呼ばれたのは、自分の罪に悩む人、貧しい人、虐げられている人、病んでいる人―
このお方は、片隅に追いやられ、見向きもされない人々を見つめ、その傍らに居てくださいました。
それは、今なお続いています。

人々にとって、心浮かれるこの季節、深い悲しみ、孤独を感じる方達も少なくないと耳にします。
人となられた神、主イエス・キリストの慰めが、豊かにありますように。

「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。) (聖書 マタイの福音書 1章23節)
JUGEMテーマ:クリスマス
author:とんとん, category:ゴスペル(福音), 08:24
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コイの池掃除
昨日&今日と「コイの池」の掃除をしています。
「コイの池」…正式名称は「生態試験池」と言います。
生物が生息できる水かチェックするため、コイを放っている池です。
見学に来た小学生たちは、この池の周りでお弁当を食べています。

さて、池掃除のためには池の中のコイを他に移さなければなりません。
網ですくって他の池に設置したイケスの中に入れるのですが…。
コイたちは逃げ回りますし、網に入っても暴れて抵抗します。
……まぁ、当たり前ですけれどね。
捕まえるこちらはちょっとしんどいわけです。
ボクは片足、長靴の中までびっしょりになってしまいました。

コイにしてみれば、捕まえられて水中から引き出されるのは嫌なことでしょう。
でも、そうやって他の池に移らないと、コイにとって大変なことになります。
最終的に池の中に残っているものは、汚泥処理施設に送られてしまいます。
つまり、死んでまう、ということです。

実は、池にはコイ以外にも、取水口からまぎれ込んで来たであろう小魚がけっこういます。
ところが、網の目はコイのサイズに合わせてあるので、小魚は網の目をすり抜けて残ってしまいます。
コイにしてみれば「自分は捕まって残念!網の目を抜けた小魚がうらやましい。」と思うかもしれません。
小魚たちは「網に捕まらなくてラッキー」と思うかもしれません。
しかし、その先にあるものは逆なのです。

去年も思ったのですが、コイに言葉が通じれば次のようなことを言ってあげたいな…と思うのです。
「網を恐れなくていいんだよ。水から引き出すのは、君たちを助けるためなんだ。このままこの池にいたら死んでまうんだ。でも、引き上げた先には水があって、生きられるんだよ。」

ひょっとしたら、去年も同じようなことを書いていたかもしれませんが…
クリスマスのこの時期…人として来られた神の子イエス様のことを覚える季節に、このコイの池掃除はボクにとって意義深く感じられるのです。

イエス様がおっしゃっておられるようです。
「おまえがコイに語りかけたいように、わたしも人に語りかけたくて人になったのだよ。
このままでは罪と一緒に滅んでしまう。
助かる道に引き上げようとする神の手を恐れないで。」

この地上の限られた範囲しか見えないボクたちに、永遠の幸いを伝えて、与えるために、ボクたちと同じ人となってくださったイエス様に感謝です。

明日、明後日とクリスマス特別福音集会が開催されますが、多くの方がこのメッセージを聞かれて、永遠の幸いを得てくださることを望みます。

「ことば(神のことば:イエス・キリスト)は人となって、私たちの間に住まわれた。…ひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(聖書 ヨハネ1章14、18節)

コイの池掃除_開始時
コイの池掃除_開始時 水を抜き始めたところ
コイの池掃除_途中
コイの池掃除_途中…ノロを流しているところ
コイの池掃除_完了
コイの池掃除_池の水を完全に抜いてノロを取り除いた状態。この後、水を戻して、コイも戻します。
author:sa-ru(会堂管理人 おさる), category:ゴスペル(福音), 15:44
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昔、描いたクリスマス漫画
クリスマス25年ほど前に描いたクリスマス漫画を、2007年にこのブログに載せました。クリスマス
今更…ではありますが、リースクリスマスの意味の失われている昨今…リンクをここに張りますので、まだご覧になっていない方、もしよかったら、見てやってください。

JUGEMテーマ:クリスマス


author:sa-ru(会堂管理人 おさる), category:ゴスペル(福音), 23:02
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とんとんから、A子さんへの手紙
「秋の特別子供会」でのテーマ聖句は「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」でした。
ところが、それが「できない」と思い悩まれた方からお手紙が来ました。
あるいは同じように悩んでいる方もいるかと思い、返事の一部を公開します。

―――――――――――
A子さん、「隣人を愛せよ。」の前にね、実は大切な律法があるの覚えてる?
「心を尽し、思いを尽し、知性を尽し、力を尽して、あなたの神である主を愛せよ。」
この二つはセットで、必ず最初は神を愛することなのです。
A子さんは真面目なので、常に努力するけど、本当のところ、この二つの命令を完全に守れる人は一人もいないですよ。
人となられた神、イエス・キリスト以外にはね。
(お話の後のクイズでやったでしょう?)
クリスチャンになるというのは、自分の無力を認めて、全能の主イエス・キリストにすがることなのです。
イエスの絶大な愛を味わわない限り、隣人を愛することなんてできないよ。

―――――――――――


クリスチャンでありながら、A子さん以上にこの命令を守れないとんとんですが、日々、イエス・キリストの愛に圧倒されています。
まさに、Amazing Grace!
ですね。
author:とんとん, category:ゴスペル(福音), 09:38
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雛祭りに思う
早いもので、もう3月。

3月3日は「雛祭り」ですね。
「雛祭り」の由来は、皆さんご存知のように「流し雛」です。
災厄を紙で作った人形(ひとがた)に託して水に流して子供の健やかな成長を願う、というものです。

人の世の汚れをその身に移し取り、水に流れ去っていく人形(ヒトガタ)…。

2月の節分もそうですが、昔の日本人は汚れや災厄といった悪しきものを自分のウチから祓い清めなければならない、という意識があったようですね。

汚れや災厄をウチからソトに出したらはた迷惑だ、という議論もあるかと思いますが「ウチに清めなければならない問題あり」という気付きは大事なのではないかと思います。
特に子供の健やかな成長を願う行事の中で、そうしたことが意識されるのは尊いと思います。

聖書で取り扱っている「罪」という問題と、この「汚れ」という問題は、厳密には同じではありませんが、似た概念として捕えることができるでしょう。

実は、聖書には「流し雛」とよく似たものがあるのです。
それは「アザゼルの山羊」というものです。
「アザゼルの山羊」とは、レビ記16章に記載されている「贖罪の日」になされる罪の贖いのための2頭の山羊のうちの1頭です。
1頭は罪を転嫁されてほふられるのですが、もう1頭は人の罪を転嫁されて荒野に放たれるのです。
この荒野に放たれるのがアザゼルです。
「人の罪一切を取り除く」ということを意味します。

イエスさまが生まれる1400年ほど前に規定された「救い主を予表する型」のひとつです。

そして、時到ってイエスさまがお生まれになり、「型」が指し示すところの「本体」として十字架に架かられて罪を永久処分してくださいました。
イエスさまは血みどろになりながら、私たちの罪一切をその身に負ってくださり、ほふられることと罪を取り除くことを成し遂げてくださいました。

今、私たちはヒトガタや高価な人形を用意しなくても、イエスさまを救い主として受け入れるだけで全ての罪が取り除かれるのです。

見よ、世の罪を取り除く神の小羊。(聖書 ヨハネの福音書1:30)
author:sa-ru(会堂管理人 おさる), category:ゴスペル(福音), 12:19
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超・親バカ親父
さて、先日予告しておりました「特別集会でボクが考えさせられたこと・その1」です。
まとめようとしている間に、次の特別集会が迫って来ましたので、本当に一部だけですが、ともかく、アップします。

--------------

旧約聖書に登場するイスラエルの王様にダビデという人がいます。
この王様、若い時から苦労の連続で、しょっちゅう命の危険にさらされておりました。
その中でも、かなり極めつけにピンチな出来事がありました。

クーデターが起こり、ダビデは王宮を追われ、僅かな側近と共に逃亡生活を余儀なくされます。

クーデターの首謀者は四年間周到に用意し「民の心を盗み」、兵を備え、官僚たちにも賛同者を作っていました。
そして……計画は実行に移され、クーデターは成功……しつつありました。

誰の目から見てもダビデのほうが不利であり、クーデターの首謀者が王になるのは時間の問題のように思えました。

ところが、有利なはずの戦いのさなか、クーデターの首謀者・反逆者はダビデの将軍の手にかかって命を落としてしまいます。
彼は美しい長髪を自慢とする、イスラエル一と言われたイケメンでしたが、その長い髪が木に絡まり身動きができなくなったところを刺し殺されたのでした。

首謀者が死んで、クーデターは鎮圧され、ダビデは王宮に戻ることができました。

さて、ダビデはどうしたでしょう?

自分の命を狙っていた反逆者を打ち取った将軍に多くの褒美をとらせた……となるのが妥当のようですが……、実際は違いました。
ダビデは反逆者の死を悲しんで、大泣きしながら、自分が代わって死ねばよかったと言い続けるのです。

「王様、それでは、命がけで働いた私達はなんなんですか!?」と、将軍に怒られてしまうほど、ダビデは反逆者の死を悲しみました。

自分の命を狙う相手を愛し、心配し、自分が身代わりに…と思うとは、常軌を逸しています。
ダビデは頭がおかしくなったのでしょうか?

いいえ、理由がありました。……部下にとっては理不尽でしょうが……。

そのクーデターの首謀者とは、ダビデの息子・アブシャロム王子だったのです。
父の命を狙い、周到に用意し、父を追い詰めていく……そんな息子でも、ダビデにとっては「愛する息子」なのです。

……むろん「息子をそこまで愛していたなら、そんな大事件になる前になんとかできなかったのか?」という議論の余地はあるかとおもいます。
公務の多忙さゆえに家族がないがしろになってしまった、とか、さまざまな経緯で家庭が複雑になり、適切な対応ができなかった、とか、いろいろなことはありますが……
でも、それでも、ダビデにとっては「自分が身代わりに死んでも、生きていてほしい、愛する息子」なのです。
ダビデは、どうしようもない「親バカ親父」ですね。

神様の人間に対する愛もそれに似ています。
神様はダビデが息子に示した愛以上に深い愛を私たち人間に示し続けています。
神様は、私たち人間の出来・不出来に関わらず、いやそれどころか、反逆されても、刃を突き付けられても、存在を否定されても、それでも私たち人間を「愛している」とおっしゃっておられるのです。
罪を持ち、神様を神様として認めない…そんな私たち人間を、神様は愛しておられるのです。
神様はダビデ以上の「超・親バカ親父」です。

…しかし、神様は愛であると同時に、聖でもあられます。
神様は「罪」は受け入れることができません。

そこで、神様が用意されたのが「イエス・キリストの十字架」なのです。

イエス・キリストの十字架の死はボク、そしてあなたのためです。
自分の命を狙う息子をなおも愛するダビデのように、自分に逆らい続ける人間を愛する神様は、人間の罪を解決するために、ご自身のひとり子の神イエス様を十字架にかけてくださったのです。
イエス様はボクたちの罪を背負って十字架にかかって死んでくださいました。
イエス様がボクたちの身代わりとして死ぬことにより、信じる者は罪の負い目を解かれ、さばかれることがないのです。

 「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。」(聖書 ヨハネ第一の手紙 3:16)
 「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに神の愛が私たちに示されたのです。」(聖書 ヨハネ第一の手紙 4:9)
author:sa-ru(会堂管理人 おさる), category:ゴスペル(福音), 21:47
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親がクリスチャンだったからか?
ボクがクリスチャンになった理由を訪ねられることがあります。
「やっぱり、ご両親がクリスチャンだったからでしょうね。」
という問いに、以前は「とんでもない!」と、語気を荒げて返答しておりました。
親への反発もありましたし、親を見てクリスチャンに幻滅しつつも、聖書を通してイエス様に出会い「親に負けたんじゃない。イエス様に負けたんだ。」と、イエス様を信じる決心をした者としては、「親なんか、関係ねぇ!」と、思っていたのです。

でも、最近、数人の方と話して気が付きました。
親がクリスチャンだったおかげで障壁が少なかった、のは確かです。

多くの方は、以下のような障壁…というか、恐れを持っているようです。
ボクは親のおかげで、内部の実体がわかっていたので、そうした恐れはありませんでした。
それは感謝なことなのだな、と、今にして思います。

【多くの方の持っている障壁】
1,最初は無料と言っていても、後でボラれるのではないか。
2,マインドコントロールされるのではないか。
3,うさんくさい。

ありえない、ですね。

まあ、危ない宗教が出回っているので、同列に考えてしまうのは、仕方ないのかもしれませんが。

こうした余計な障壁というか、恐れを持たずに、「イエス・キリストは信ずべき神・救い主か?」ということを純粋に検討できたのは、確かに親のおかげですね。

でも、結局は、聖書を通してイエス様と一対一で向き合わないとだめなんですよ。
逆を言えば、イエス様と一対一で向き合えば、どんな家庭の人でどんな生育暦を経た人でもクリスチャンになれるのです。
author:sa-ru(会堂管理人 おさる), category:ゴスペル(福音), 06:37
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ローマ帝国は寛容…だったっけ?
ウチはテレビが無いので知らなかったのですが、お正月番組でローマ帝国を取り上げたものがあったそうですね。(古い話しですみません)
以下は、会社での雑談中に出て来たことなので、実際の番組とは多少違いがあるかもしれませんが、ボクに説明してくれた人は、そのように受け取った、とご理解ください。
番組の中で、「ローマ帝国があのような広大な領土を治められたのは、宗教の寛容さのゆえ」と、説明していたそうです。
ローマの多神教の神に征服した民の神を加えてゆき、被征服民の神を受け入れて取り込むことで、平和が成り立ったというのです。
1神教ではぶつかるけれど、多神教はぶつからない、というのです。

えっ? そうだったっけ?
いや、別に、ボクがその時代にいたわけじゃないですけど。
たしか、ローマ帝国って、皇帝によりますけど、かなり宗教弾圧をしていますよね。
暴君と呼ばれるネロが行なったクリスチャンの虐殺は、有名ですよね。
さらに、ネロほど有名ではありませんが、ディオクレティアヌス帝はもっと凄惨な弾圧を行なっています。
全然寛容じゃないです
テレビのコメンテータさんは、おそらく歴史の一部分しかご存知ないのでしょうね。

寛容か非寛容か、は、多神教か1神教か、とは別次元の話しだと思います。

番組は、さらに続けて、「日本も多神教の国だから、寛容ですね」と締めくくったそうです…。
……確かに……大多数の方は寛容なのですが、一部「多神教でなければダメ」とクリスチャンを攻撃する非常に非寛容な方がおられるのですが……。
「多神教は良くて1神教はダメ」という主張そのものが非寛容であることに……気が付いていないのでしょうね。

そういえば「多神教がいい」と、強く主張する某作家(?なのか評論家なのか?)の方が、「たばこが健康に悪いとは証明されていない。たばこの害を言う人々は、自分の意見を他者に押しつけようとするファシズムだ。」という趣旨の主張をされて、物議をかもしていましたね。
結局のところ、「俺に意見するな」ということなんですよね。

そういうことであれば「多神教がいい」のはわかります。
1神教であれば、神様は、霊のお父さんですから、人格的なかかわり、つまり意見の行き来がおこります。神様─天のお父さんは、ものごとの善し悪しの意見を私たち子供たちに語られます。
多神教では、基本的に、そうしたかかわりはないはずです。万一、何か言われて気に入らなければ別なところに行けばいいだけです。

つまるところ、その某作家さんにとって「多神教がいい」のは「他者を受け入れ合えるからいい」のではなく、「自分の我儘が受け入れてもらえるからいい」だけなのですよね。
多分そのまま言うと、なんなので、「世のため、人のため」であるかのように装っていますが。

でも、「俺に意見するな」って生き方、なんか寂しくありませんか。
愛情溢れるお父さん(神様)との人格的な交わりは幸いですよ。
author:sa-ru(会堂管理人 おさる), category:ゴスペル(福音), 21:50
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クリスマス・パンフレット(マンガ)
以下のマンガは大学時代に描いたものです。
大学の聖書研究会で作成したクリスマス・パンフレットに載せるために描きました。

絵が稚拙で、文字の張り込みも変なのですが、まあ、読んでやってください。

クリスマス・パンフP1の最初

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author:sa-ru(会堂管理人 おさる), category:ゴスペル(福音), 23:38
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