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とりなしの祈り
先日、福島集会の友人が訪ねて来てくださいました。
それ以前にも、お電話でお話しさせていただいていましたが、直接、顔と顔を会わせてお話しし、祈り合えたことは感謝でした。
福島の様子をいろいろとおうかがいすることができ、考えさせられました。
福島集会は妻の母集会であり、ボクも何度もおうかがいしてお世話になっている集会です。
福島という地も…場所は限られていますが…何度も行っている所です。

お話ししていて聖書のネヘミヤ記の1章を思い出しました。
シュシャンの城にいたネヘミヤの元に、戦争で破壊されたエルサレムから親戚が訪ねて来て、エルサレムの荒廃している様子を伝える場面です。

無論、神罰によって一時的に崩壊したエルサレムと今回の自然災害はまったく別なできごとです。
ですが、そのことを注意した上で、ネヘミヤの態度には教えられるものがあります。

ネヘミヤは報告を聞いた時、次のように祈ります。
「ああ、天の神、主。大いなる、恐るべき神。主を愛し、主の命令を守る者に対しては、契約を守り、いつくしみを賜わる方。
どうぞ、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。私は今、あなたのしもべイスラエル人のために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエル人の罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。」
(聖書 ネヘミヤ記1:5、6)

この祈りから感じられるのは「当事者感」です。
ネヘミヤは真面目で誠実な人でした。
滅びを招いた人々とは違うのです。
「あいつらのせいでエルサレムが崩壊して、私まで巻き添えで捕虜になって……」と言ってもよさそうなものですが、そうせずに「私たちがあなた(神様)に対して犯した…」と祈るのです。
自分を「巻き添えをくった被害者」ではなく、「裁かれる当事者」の立場に置いて、祈っているのです。

自分をどの立場に置くか? で、物事の見方や対応が変わると思います。
批判者(さばく側)か当事者(裁かれる側)か……?

イエス様はどうされたでしょうか?
そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』」(聖書 ルカの福音書23:34)
これは、イエス様が十字架に釘付けられた時に、自分を殺そうとしている人々のために祈った「とりなしの祈り」です。
イエス様も「裁かれる側の立場」に立たれました。
モーセやダニエルといった人々も同じように民をとりなしました。

ボクたちは……どうでしょうか。
物事に対して「巻き添えをくった第三者」「評論家・批判者」のように接していないでしょうか。

ニュースを聞く時、人と出会う時、人の話しを聞く時…どのように聞くか心掛け、そして相手のために祈る習慣を身に着けよう、と思うしだいです。

情報収集のため、ブログ巡りをしていたところ、以下のようなクリスチャンの方の文章を見つけました。

-▼ここから--------------------------
昨日、ラジオや新聞、携帯のテレビから受けるニュースを見て恐れている自分に気がついた。
大量の情報を仕入れて、なんとか生き延び、安心しようとしていたのだと思う。
しかし、ふと我にもどって気がついたのは、どんなにたくさん情報を仕入れても平安はないということ。
心配がますだけだった。

だからと言ってニュースを見るのをやめるというのも、あまりに浮世離れしてしまう。

ちょっと考えて気がついたのは、これらのニュースは即ち日本からの「祈りの課題」だということ。
兄弟姉妹から「祈りの課題」ですと言われて聞くと、その事について祈るが、
ニュースとして聞く時、ただの映画のような現実に不安に陥るか、
一流の政治家か学者か国家危機管理者かのように、
一生懸命現場で働き、指揮を一生懸命とっているリーダーを批評するだけだ。

逐一流れて来る情報は、我々が生きる為のでもなく、不安になるためでもなく、評論するためでもなく、駄目だしをするためでもない。

「電気がたりない」というニュースは、パチンコ屋を批判するためではなく、「節電する人が起こされるように」という祈りをするためである。

「食糧がたりない」というニュースは、買いだめをする者を批判するためではなく、「必要な人にいきわたるように」という祈りをするためである。

「福島の原発が危険」というニュースは、東電や政府の対応を批評するためではなく、「現場が悪化しないように」という祈りをするためである。

「放射能濃度が高くなった」というニュースも、東電や政府の対応を批判するためではなく、「現場で働く人の命がまもられるように」という祈りをするためである。

「総理や官房長官が記者会見した」というニュースは、彼らの情報公開の程度や対応を批評するためではなく、「彼らが支えられ、神の知恵があたえられるように」という祈りをするためである。

不安を覆い隠すために、情報を過度に集め、批判ばかりしている自分が恥ずべき事をしていることに気付かされ、悔い改めさせられた。

-▲ここまで--------------------------

同感です。
批判してつぶやきの中に陥るのではなく、主にとりなす者でありたいですね。
ニュースだけでなく、身の回りの人に対しても、そのようでありたいです。
author:sa-ru(会堂管理人 おさる), category:建徳の学び, 10:59
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死と葬儀について
母の召天一週年記念会を機に「死」や「葬儀」について、もう一度考えさせられましたので、ここに記します。

そもそも、聖書では「死」とはどのようなものと定義しているか見てみます。

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ロマ 6: 23)

「死は“罪の報酬”」ということです。
この箇所だけ読むと誤解する人もいるかと思いますので、念のために申し添えますと、「死の時期と罪の大小は無関係」であり、「人類に“罪”が入ったため、人は死ぬ生き物になった」ということです。
死は自然の摂理…と言われますが、決して神様の望まれていることではありません。
むしろ、神様は人に「永遠のいのち」をプレゼント(賜物)したいと望んでおられる、というのがこの箇所の言っていることです。

創世2章、3章には、この「人に罪が入った顛末」が記されています。
そして、その「アダムによる原罪」のため全ての人に死が入りました。
しかし…肉体の死は避けられませんが…霊(その人そのもの)は神様から「永遠のいのち」というプレゼントを受け取ることができる!のです。(キリスト・イエスにある人は)
このいのちを受けた人は、死によって、肉体と分離しても、イエス様の元で幸いに過ごすことになります。
更に言えば、信者の死は、罪の世界からの解放となります。これは、例えば、ガンなどの病の苦しみからの解放ということだけではなく、罪によってゆがめられているこの世界から解放され、真に幸いな世界へ旅立つ、ということです。


では「葬儀」とは何でしょうか?
「魂はすでに神様の元に行ったのだからどうでもいいじゃん?」
…と、思う人が、私を含めて多数いるのではないかと思いますので、聖書から確認したいと思います。

だいたい4つのことが言えると思います。

(1)参列者が人生の終わりを真剣に考えるため。
 …他人への証し。
良い名声は良い香油にまさり、死の日は生まれる日にまさる。(伝道者の書 7:1-2)

葬儀は地上の関係の終了を公に告知します。
参列者と遺族の「告別」の機会です。ただし、死の瞬間に死んだ信者はイエス様の元に召され、地上にあるのは遺体…残された体…にすぎません。地上の人が遺体に「別れをつげ」ても意味はありません。残された人が「別れたという事実を告げられて認識する」ということです。「友人知人への告別の機会」であって「友人知人が死者に告別する」わけではありません。
でも、「告別式」というと「遺体に別れをつげる」ように受け取られる可能性が大ですので、クリスチャンは「告別式」ということばは使わない方が無難かもしれません。
ともかく、地上に残された方たちに、死への備えを促す機会です。

(2)天上と地上の両方で一つのことを通して礼拝するため
…礼拝のため
それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、(ピリピ 2:10-11)

この聖書箇所の背景は葬儀ではありませんが、「天にあるもの、地にあるもの」がそれぞれ主を礼拝している様子が「礼拝のあるべき姿」として描かれています。葬儀ではこれを実際に行うことができる(天に行かれた方と、地に残っている私たちと)わけです。

時の支配者であり、命の支配者である主を覚え、礼拝を捧げるのです。

(3)遺体となった肉体を、神への感謝と惜別の思いを持って丁重に葬ることは必要。
…ただし、丁重と華美は違う。
もし人が百人の子どもを持ち、多くの年月を生き、彼の年が多くなっても、彼が幸いで満たされることなく、墓にも葬られなかったなら、私は言う、死産の子のほうが彼よりはましだと。(伝道者の書6:3)

どうも、葬られないと不幸…らしいです。
これは「葬られない」といけない、とか、事故など様々な事情で葬られなかった方々を「あなた不幸ですね」ということではありません。
そうではなくて、かつて私が思っていた「魂はすでに神様の元に行ったのだから残った体はどうなってもいいじゃん」という考えは間違いだ、ということです。
次のように書いてあります。
死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ…(1コリ15:42-44)

復活の「栄光の体」は地上の体と全く違う物でありながら、連続性を持っている……のです。どういうことなのか、よく分からないのですが、ともかく、そう書いてあるのです。
と、いうことで、遺体を丁重に葬ることは大切なのです。

(4)地上に残された方々への慰めのため
眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。(1テサロニケ 4:13-18)

以前の私は遺族や友人たちの悲しみなんてことは考えていませんでした。
残った人への伝道の機会として……それは目的の[1]で上げたことで正しいことですが……しか捉えていませんでした。
これは不十分であり、非常に非礼なことだったと、今にして思います。
特にK長老ご一家の皆様に申し訳なかったと思っています。お父上が天に召された時、当時未だ小さかったe兄を抱えて奮闘しておられた姉妹に対して配慮が無かったと思います。母の葬儀の時にお詫びをして、「20代という若さでは分からなくて当然ですよ」と、お許しをいただきましたが、経験を積まないと分からないことは多いように思います。

「福音」は遺族などの遺された人たちの慰めです。
「あなたたちの妹(母の場合)は今、涙も悲しみもない幸いなところにいるんですよ。そして、再会の望みがあるんですよ。(…ただし信者なら。)」ということですよね。
私は、本当に慰められました。

神の約束
イエス・キリストの救いのみわざ
イエス・キリストの復活の事実
…これこそ真の希望です。
この希望を、慰めを伝える場として、葬儀、そして記念会が用いられることを願っています。
author:sa-ru(会堂管理人 おさる), category:建徳の学び, 23:04
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大祭司エルヤシブ
旧約聖書のネヘミヤ記に「大祭司エルヤシブ」なる人物が登場します。
エルヤシブという名前の意味は「神は回復する」で、親御さんの願いが込められているようです。

かつて、イスラエル国は神様に叛き、預言者による度重なる警告に耳を貸さなかったため、神様の守りを失い、強国バビロンに征服され、国を失い、民は捕囚として本国に連行されてしまいました。これをバビロン捕囚といいます。
神様はその後、バビロン皇帝の心を動かし、イスラエルの国を復興します。
第一次帰還民として、ダビデ王家の流れを汲むゼルバベルを総督とした一団がバビロンからイスラエルに戻り、神殿を再建します。
この時、ゼルバベルと共に民を指導した大祭司がヨシュアという人で、この人の孫がエルヤシブです。(参考ネヘミヤ12:10,11)
神様がイスラエルという国を回復させてくださっている、という喜びと願いが名前に表れているわけです。

さて、ゼルバベルの後、50年ほどして第二次帰還として、学者エズラに率いられた一団が帰還します。
そのさらに約10年後に、総督ネヘミヤに率いられた第三次帰還がなされるのです。
それぞれの帰還には目的がありました。
ゼルバベルは「神殿再建」、エズラは「信仰生活の復興」、ネヘミヤは「城壁再建」です。

ゼルバベルと共に神殿を再建した大祭司ヨシュアの孫であるエルヤシブは、ネヘミヤという総督が来たので、喜んで率先して城壁の再建に取り組んだ、と思われます。
ネヘミヤ記の3章1節では、再建工事の筆頭に大祭司エルヤシブの名前が挙がっています。

こうして、大祭司エルヤシブは、その兄弟の祭司たちと、羊の門の再建に取りかかった。彼らはそれを聖別して、とびらを取りつけた。彼らはメアのやぐらまで聖別し、ハナヌエルのやぐらにまで及んだ。(ネヘミヤ3:1)

「羊の門」エルサレムの城壁の北東部に位置した。エルサレム神殿に一番近い門。名の由来は「いけにえの羊がよく通るから」とも言われる。北方からの巡礼者の多くもこの門を通るため、後に、巡礼の沐浴のための池(ベテスダの池)が作られる。…神殿と関係の深い重要な門


大祭司エルヤシブは、率先して工事に携わり、重要な門を再建し、神殿の北に面する城壁(ハナヌエルのやぐらまでの間)を再建したのです。立派な働きです。

ところが…この後、妙な記述があります。

そのあとに、コツの子ウリヤの子メレモテが、エルヤシブの家の門からエルヤシブの家の端までの続きの部分を修理した。(ネヘミヤ3:21)
└→自分の家の前の城壁の修理は自分ではやらなかったのです。
多くの人は、自分の住居に面している部分を担当しています(10,23,28,29,30)。
でも、エルヤシブはやらなかったので、見かねて(?推測ですが)他の人(ウリヤの子メレモテ)が修理した…ようです。
ウリヤの子メレモテは既に4節で割り当てられている区域を修復していました。
(他にも、自分たちの工区が完成して,他の区域の修復も手がけた者たちはいます…5と27,11と23等。)

これはとても象徴的なことに思えます。
「神殿」のことには一生懸命励むが、自分の家庭の中での信仰生活の守りは弱い……。
誤解の無いようにお願いしたいのですが、「家庭を優先して神様のことを後回しにしよう」と言っているのではありません。以前に長老がたが学ばれたように「神の国と神の義を、まず第一とする」のは基本です。
ここで書かれているのは家を建てることではなく、城壁のこと。家庭での信仰生活の守りについて、です。

…恥ずかしながら、自分の家庭での信仰生活について、かなり考えさせられています。
自分としては「今年の目標」と思っています。夫婦の霊的友情、家庭礼拝の確立(?)。
先日、会社の新年礼拝でも、このことを指摘されました(会社で!ですよ! 仕事の奨めではなく、家庭のことの奨めとは!)。

エルヤシブの家庭での信仰生活について、これは考えすぎではない……と思われます。
13章に、その結果と思われる出来事が記されています。

私たちの神の宮の部屋を任されていた祭司エルヤシブは、トビヤと親しい関係にあったので…(ネヘミヤ13:4)

大祭司エルヤシブの子エホヤダの子のひとりは、ホロン人サヌバラテの婿であった。(ネヘミヤ13:28)

「トビヤ」そして「ホロン人サヌバラテ」とはネヘミヤが推進した城壁再建に強硬に反対し、圧力や陰謀、妨害工作などをしかけ、ネヘミヤ暗殺を謀ったりした敵対勢力の中心人物です。
その敵対勢力のトビヤと迎合し、ホロン人サヌバラテと縁戚となる、とはこれいかに?
「敵をも愛する愛」ならいいのですが、そうではなく、政治力のあった敵対勢力に妥協して飲み込まれてしまった……ということのようです。
これは悲惨です。

この後、新約聖書の時代になり、イエス様が来られた時には大祭司の一族は「サドカイ派」という「神様の奇跡や天使や死後の世界を一切信じない、現世理性主義」に陥っていました。……「大祭司」でありながら「神様を信じていない」と言えるありさまです。
そして、イエス様を十字架に付けることになるのです。
これをエルヤシブの結果だとは言い切れませんが、無視できない事実だと思います。

ところで、エルヤシブの家の前の城壁を再建した「ウリヤの子メレモテ」とはどのような人物だったでしょうか。
エズラ記の記述を見ると、この人は祭司の一人でした(参照エズラ 8:33)。
そして、ネヘミヤの提案した信仰の盟約に印を押した人の一人でもあります(参照ネヘミヤ 10:5)。それだけ、信仰に篤い人であったと思われます。
また、「祭司たちがそれぞれ、自分の家に面する所を修理した」(ネヘミヤ3:28)とあるので、自分の家の前の城壁の再建は自分で行ったと思われます。
ですから、メレモテは「3:4の割り当て区分」と「エルヤシブの家の前」と「自分の家の前」の3箇所を再建したと思われます。
「羊の門」のような目立つ場所ではありません。神殿の北側の城壁のような重要な場所でもありません。
でも、大事な3箇所です。
公の働き、他の兄姉方のとりなし(フォロー)、家庭での信仰生活……。
メレモテの名は10章以降は出てきません。その家系がどうなったのかについて聖書は語っていません。その他大勢の、名も無い祭司たちなのでしょう。
でも、目立つ働きより、こうした地道な歩みが大切だと思うのです。

新約聖書の時代、神殿での祭儀が守られていたのはこうした忠実な祭司たちのおかげだったのではないか、とも思えるのです。ルカ1章のザカリヤなどは、その好例でしょう。
そして、そうした祭司たちがどうなったかは、「使徒の働き」に記されています。

そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った。(使徒 6:7)

イエス様を処刑した大祭司と、イエス様を信仰した祭司たち……見事なまでのコントラストが表れています。
全てが繋がるとは言い切れませんが、家庭における信仰生活の重要性を考えさせられます。
ボクにも妻がいて子どもたちがいます。兄弟姉妹がいます。家庭があり、親族がいます。そうした身近な人たちの中で忠実に誠実に信仰生活を歩むということ、特に同志である妻とは一致して信仰生活を確立すること……地道でありながらとても難しいそのことを求めて生きたいと思います。
信仰の兄弟姉妹方と励まし合って歩んでいけたら幸いだと思います。
author:sa-ru(会堂管理人 おさる), category:建徳の学び, 23:36
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「祈り求める」こと
最近、複数の兄弟方から、連続して「祈る」ことについて教えられています。
それぞれ、全く無関係に、何の接触も無く、です。
これは、単なる偶然ではなく、神様が私たち夫婦に「祈る」というクリスチャンにとって基本的なことを、もう一度、教えようとされているのではないかと感じています。
そこで、数年前に買って読んだ『祈ることを教えてください』という本を久しぶりに読み返してみました。
この本は、聖書の教えている祈りについて、非常に良くまとめていて、出版当時、クリスチャンの間で、ちょっとしたブームになった本です。

読み返して、いろいろ考えさせられました。
マルコ6:6では、イエス様が人々の不信仰に驚かれたことが記されています。
その結果、「そこでは何一つ力あるわざを行うことができず」(6:5)というように、イエス様の働きが止められてしまいました。

私も、同じかもしれません。
イエス様は力あるわざを行おうとしておられるのに、私の不信仰がそれを止めているのかもしれない……のです。
祈らない、もしくは、少ししか祈らない…ということは、イエス様への不信仰のあらわれでしょう。

ヨハネの福音書14章〜16章に最後の晩餐の席上でのイエス様の告別メッセージが記されています。その中で、イエス様は何度も「祈り求めること」を勧めています。
ピックアップすると以下のようになります。

14:13 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。
14:14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。
15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
15:16 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。
16:23 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。
16:24 あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。
16:26 その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。


実に7回もイエス様は「わたしの名によって求めなさい」と勧めておられるのです。
7回(完全数)もですよ。
しかも、すごい約束です。
イエス様のお名前によって父なる神様に求めることは何でも与えられる、というのです。
諸先輩がたから「答えられない祈りはない。しかし、その答えが私たちの願いとは違う場合が多々ある。」と聞いています。
ヤコブ書 4:3には「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」とも書かれています。
神様に祈り求めるとは、とりもなおさず、私たちの内面が探られることでもあるわけです。
私たちは神様に誠実か、御心を求めているか、イエス様に自分を明け渡しているか、それが問われます。そうであれば、求めることは何でも与えられる、のです。

14章では「もう一人の助け主」(聖霊)を遣わされることと絡んで言われています。
聖霊のみが私たちを祈りに奮い立たせることができる、ということでしょう。
ローマ8章26,27では、どのように祈ったら良いか分からない私たちを聖霊がとりなしてくださることが記されています。
聖霊に私たちを探って、導いていただきましょう。

15章では「実を結ぶこと」に絡んで言われています。
この実とはよく言われるように、この世的な働きの成果ではなく、聖霊の実(愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制)のことでしょう。
イエス様に繋がり、留まり、聖霊に働いていただき、実を結ぶための養分をいただきましょう。(痛い養分も多々あるかも…)

16章では喜びに絡んで言われています。
イエス様のよみがえりによって与えられる喜びに生きる者となりましょう。
これも、聖霊の助けであると16章の前半で教えられています。
聖霊の助けを求めましょう。
そして「絶えず祈りなさい」という、祈りの生活態度を求めましょう
みこころにかなう求めは、何でも与えられる、のです。
author:sa-ru(会堂管理人 おさる), category:建徳の学び, 20:42
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マグダラのマリヤから
今回は『ダ・ビンチ・コード』で話題になった「マグダラのマリヤ」さんについて聖書から見ていきたいと思います。
話題になっているわりに、聖書に、彼女の名前は12の節(+2)にしか登場しません。
(+2と言いますのはヨハネの福音書で2箇所「マリヤ」と「マグダラ」抜きで登場する節があるからです。)
「学びはイエス様を知るためのものだから、信者にスポットを当てるのは学びとしておかしい」という考えもありますが、信仰の先輩の姿から学ぶところも多いと思いますので、ご容赦ください。
聖書に登場する場面を最初から(時間順ではなく、聖書のページ順)見ていきます。

マタイ27:55-61、28:1-8
マグダラのマリヤ(と他のガリラヤからついて来た女たち)は
1.イエス様の十字架をずっと見ていた
2.イエス様が墓に葬られる様子をずっと見ていた
3.イエス様の墓に週の初めの日の明け方に行った
(4.そして天使からイエス様の復活の知らせを聞く)

これはスゴイことです。
犯罪者として処刑される人と関わりを持ちたいと思う人がいるでしょうか? 現に弟子たちはみな(一人を除く)逃げて隠れてしまいました。しかし、マグダラのマリヤたちはイエス様の十字架にずっと立会い、葬りに立会い、安息日明けの朝に墓に向かうのです。イエス様を慕っている様子が良く分かります。

4.を「カッコ付け」としたのは、復活の告知の場面には名前が出ていない、というのが一つの理由です。もう一つ別な理由がありますが、それは後述します。
ともかく、墓に行った女たちは天使から「予定通りにガリラヤで会おう」というイエス様からの伝言を弟子たちに伝えるよう言われるのです。

マルコ15:40-16:9
基本はマタイと一緒です。
新たな情報が3つあります。
1.15:47…イエスの納められる所を「よく」見ていた…と、あります。単に墓のほうを向いてすわっていたわけではありません。これは、葬りの確かさを意味します。時々「お墓を間違えて復活騒動が起こったのではないか」という方がいますが、ありえません。
2.「遺体に塗るため」の香油を購入した…と、あります。単に墓の様子を見に行ったわけではなく、イエス様の遺体の処置をするために行ったのです。彼女たちはイエス様が復活するなどとは夢にも考えていませんでした。時々「彼女たちはイエスが復活して欲しいと強く願っていたので復活したような幻を見たのだ」という方がいますが、ありえません。彼女たちを含め、弟子たちも、イエス様が何度も予告されていた十字架の死と復活をまったく分かっていませんでした。
そして、とても残念なことですが、マグダラのマリヤさんたちが購入したこの香油は使われませんでした。
イエス様に葬りのために香油を注げたのはベタニヤのマリヤさんだけです。
イエス様の足元にすわって話しを聞いていた彼女だけがイエス様に注ぐことができました。(彼女は優等生ですね。弟子たちよりずっと理解していました。)
3.そして、(追加文ですが)よみがえったイエス様は、まずマグダラのマリヤにご自分を現された、と記されています。

ルカ8:1-3
ここには、イエス様が活動されている間、マグダラのマリヤを含むたくさんの女性が一緒に行動していたことが記されています。

ルカ24:1-10
基本はマタイやマルコと一緒だがおもむきがチョット違います。
「女たち」が、天使からイエス様の復活の知らせを聞いて、そしてその女たちとは…と名前が挙げられています。
新情報としては
1.女たちはカラの墓の前で途方にくれていた
2.そこに天使が2人組で現れた…石を転がした後その上にずっと座って女たちの到着を待っていたわけではなさそうです
…ところで、ここでも、マタイと同じく、復活の告知の場面にはマグダラのマリヤの名前は出ていません。

ともかく、共観福音書では大体同じ記事が書かれています。
ところが、ヨハネの福音書ではちょっと違うことが書かれています。
これは、ヨハネの福音書の目的の一つと思われる「他の福音書を補う」ゆえんでしょう。
「共観福音書にはこうあるけど、実はその詳細はこうだったんだよ」といった話しがたくさんあるわけです。
実はマグダラのマリヤは天使からイエス様の復活の知らせを聞いていないようなのです。

ヨハネ19:25
新情報「実は…」がまずここに出てきます。
共観福音書では「多くの女たちは遠くから見ていた」とあるのですが、ヨハネは、マグダラのマリヤを含む4人の女性は十字架の「そば」に居た、と記してあるのです。
その4人とは、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤです。
十字架のそばにはイエス様の着物を分け合う4人の兵士がいました。
奪う兵士と見守る女性、4対4のコントラストがここに描かれています。

ヨハネ20:1-18
マルコの追加文に少し記載されていたことの詳細が出ています。
共観福音書の記事に、この追加情報を合わせると、イエス様が復活された朝の様子はだいたい、以下のようであったと思われます。
  1. 週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと数人の女たちは、イエス様の遺体に香油を塗るために、墓に行った。
  2. 行く途中、天使がイエス様の墓のフタの石を転がしてその上に座る。
  3. 番兵たちが逃げ出して天使が消える。
  4. 女たちが墓に到着し、カラであることに驚く。
  5. マグダラのマリヤは一人でイエス様の遺体消失をペテロとヨハネに走って知らせる。
  6. ペテロとヨハネは確認のため墓に走る。
  7. 墓で途方にくれている残りの女たちに二人の天使が現れてイエス様の復活を知らせる。(そして消える?)
  8. 女たちは天使の伝言を伝えに走って弟子たちの所に向かう。
  9. ペテロとヨハネ、墓に到着し、カラであることを確認し、帰る。
  10. マグダラのマリヤが墓に戻ってくる。
  11. マグダラのマリヤに二人の天使が現れて、イエス様ご自身も現れる。
  12. イエス様は更に、弟子たちの所に向かっている女たちに現れる。
  13. そしてマグダラのマリヤを含む女たちは弟子たちにイエス様の復活を語るが、弟子たちは信じない。
  14. その晩、弟子たちにイエス様が現れる。

マグダラのマリヤさんは活動的のようです。彼女だけお墓に2往復しています。
でも、走りまわってはいますが空回りです。
カラのお墓で、もうチョット待てばいいものを走って行ってしまったので(他の女たちは天使のお告げを聞くのに)お告げを聞くことなく、ペテロとヨハネを巻き込んだ上でまたお墓に戻って泣いているのです(他の女性たちはイエス様復活の知らせを弟子たちに伝えに行っているところです)。こういうところに私は親近感を覚えてしまいます。
勝手に動いて(もしくは先走って動いて)、肝心な知らせを聞き逃し、徒労に終わる…。
よくあります。
そもそも、イエス様とずっと一緒にいながら、何度も予告されていた「十字架と復活」をまったく分かっていなかったという理解力の低さも親近感を覚えます。
私は○○兄のような理解力を持っていません。聖書を何度読んでも、○○兄のような深い理解に至らない。そして、勝手に動いて疲弊する…。

マグダラのマリヤさんはダメですね?

いやそうではないと思います。
彼女の思いにイエス様は応えて、彼女に、復活して最初に現れたのです。
これは予告外の出来事です。
予告では「ガリラヤの約束の山で会おう」でした。
20:13でマグダラのマリヤに天使は驚いてことばが継げなかったのではないか(?)と…勝手ながら想像されます。(違うかもしれませんが)
他の女たちに言ったのと同じように「イエス様は約束どおりガリラヤでお会いに…」と言おうとしたら、マグダラのマリヤの後ろにイエス様が!!!
「イエス様、どうしてここに?!」と思ったのではないでしょうか。
イエス様はマグダラのマリヤの思いに応えて、彼女に現れてくださいました。
知識が不十分でも、理解や行動が多少間違っていても、イエス様はそれで私たちを見限る方ではありません。
イエス様を愛し、イエス様と共にありたいと願う者を、たとえ不十分でも(知識が完全ならもっと良いですが)、イエス様はねんごろに取り扱ってくださいます。
自分の不十分さを見てクサることなく、イエス様への思いをもって歩むことができれば幸いだと教えられます。
author:sa-ru(会堂管理人 おさる), category:建徳の学び, 20:47
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イエス様をよく「見る」
10/08の「建徳メッセージ」の要旨です。

聖書箇所◆ヨハネ1:29-51メモ

この箇所の3日間の出来事からクリスチャンの歩みについて考えたい。
この箇所で「見る」が一つのキーワードになっている。
「見る」と訳されているギリシャ語は3つ
βλεπω(ブレボー):見る、見分ける、わかる(1:29の最初)
ειδον(エイドン):見た、認める、気づく、経験する、(人に)会う(1:29の「見よ」)
οραω(ホラオー):見る、認める、知る、わかる、経験する、(人に)会う、心がける
微妙に意味が違うが、基本的に同じなので、今回は区別せずにこれらを「見る」。

■【バプテスマのヨハネの証言…2日目】1:29-34
前日(この日はイエス様は登場しない)からの続き。
バプテスマのヨハネはイエス様を4つのことばで紹介している。
29 世の罪を取り除く神の小羊→イエス様の贖罪的な職務
30 先在する方
33 聖霊のバプテスマを授ける方
34 イエス様は神の子である

紹介している内容も大切で、ひとつひとつ詳しく学ぶ価値があることだが、今回はこれらの証言に先立って、ヨハネがイエス様を見ていたことに注目したい。
「…ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。『見よ…」(29)
クリスチャンはヨハネと同じく、イエス様を人々に「見よ」と紹介したいと願う者。
救われた喜びによって、イエス様を周囲の人に紹介しまくって嫌がられた…という経験をしているクリスチャンは多いのでは?
しかし、まず、他人に紹介する前に、私たちがイエス様をよく見てよく知ることが必要。

ヨハネは31と33で「私もこの方を知りませんでした」と繰り返して言っている。
しかし、イエス様の存在を知らないはずが無い。
ルカの福音書1章にはヨハネが母親の胎内でイエス様の母マリヤの訪問を喜んだことが記されている。
母親同士が親類であり、親戚として面識もあったはず。
直接の対話は無かったとしても、両親から受胎告知のことを含め、さまざまなことを聞かされていたはず。
しかし「この方を知りませんでした」と繰り返して言っているのはなぜか…。

クリスチャンの諸先輩方のお証を聞くと、いや、私たちが日々聖書を読んでいても、同じことを思わされるのではなかろうか。
「何べん聖書通読をしても、読むたびに新しい発見があります」
イエス様について、知れば知るほど「この方のすばらしさを知らなかった」と知らされる。それが信者の歩みだと思う。
だからこそ、「この方を、見よ!」と言えるのではないだろうか。

私は、かつて日曜学校の生徒だった頃、先生方の話が始まるたびに「あぁ、その話し、知ってる。もう、何度も聞いて、聞き飽きている。」と思っていた。
本当に態度の悪い生徒だった。
「ストーリーを知っている」ことと「そこに込められている神様の意図が分かる」ことは全く違う!!
「あぁ、知ってる」では「この方を、見よ」とは言えない。
イエス様をよく見、よく知って「この方のすばらしさを、まだまだ分かっていない」と知らされる者がイエス様を紹介できるのだと思う。

29節の「世」という概念は神様と対立的な概念(10節)である。
しかし、神様のご性質とご計画を知れば「世の裁き主」ではなくイエス様は「世の救い主」であることが分かる。
(対立概念の「世」が神様の愛の対象!!…3:16)
(また「世」であって「イスラエル」でないことにも注意!)

34節の「神の子」ということも、あらかじめヨハネに告げられていたとは思うが、イエス様のバプテスマの時の天からの神様の声「これは、わたしの愛する子」(マタ3:17)の目撃証言でもある。「見聞きしたこと」を語っている。
ともかく、私たちは、働く前に「イエス様をよく見よう(知ろう)」。


■【最初の弟子たち…3日目&4日目】1:35-51
ヨハネの福音書では弟子の召命を証言や伝道を通して間接的になされたことを記している。
このことは、宣教について教えていると思われる。
まず、バプテスマのヨハネの証言の結果、キリストに従う最初の者が起されたのであり、「この方がイスラエルに明らかにされるため」(31)になされるバプテスマのヨハネのわざの成就である。

◆人々の証言(キリスト論)
36 神の小羊
41 メシヤ
45 旧約聖書に約束された方
49 神の子、イスラエルの王

これらの証言の背景に「見る」がある。
1:35-51を読みながら「見る」をチェックすると、実に「見る」があふれていることに気がつく。
39節の「そうすればわかります」の「わかります」も「見る:οραω(ホラオー)」
そして「泊まっておられる所を知った」これも「見た:ειδον(エイドン)」
ともかく「見る」ためにイエス様の招き「来なさい」に応じる必要がある。
イエス様の招きは未信者に対する救いの招きだけではない。

バプテスマのヨハネが見、「見よ」と言われて「ついて行った」「ふたりの弟子」(37)は、1人は「アンデレ」(40)、もう1人は無名だが、おそらく著者のヨハネだと思われる。
この「ついて行った」(37)ακολουθεω(アコルーセオー)は「従う」とも訳される。(43節では「従う」と訳されている。)
信仰的な意味でイエスに「従う」ことに用いられる場合があり、ここでも信仰的な意味を込めてこの言葉を使っていると思われる。
イエス様を「よく見たら、ついて行く(従う)」ことを読み取ることができる。
「従う」は「おこない」。聖書をよく読んで、イエス様について教えられたら、それを実践することが必要。

39節「その日彼らはイエスといっしょにいた」の「いっしょにいた」と訳される「μενω(メノー)」は、文脈上「泊る」の意味(同節の「イエスの泊まっておられる所」の「泊まって」も「μενω(メノー)」)だが、ヨハネの福音書ではイエス様のもとに信仰的に「とどまる」の意味で使われる特殊用語。
「時は第十時ごろであった」とあり、ヨハネの福音書の時間表記はローマ時間である(と私は信じている)ので、朝の10時から泊まるまで、ずっとイエス様と「その日彼らはいっしょにいた」という表現がぴったりするぐらい長時間「いっしょにいた」わけである。
イエス様を「よく見て、従って、とどまり続ける」ことを教えられる。
イエス様から離れないで、いっしょにいつづけることが必要。

そして、そのことによってさらに、イエス様を「よく見る(知る)」ことになる。
これは「信仰生活の良循環」と言えると思う。
だからこそ、アンデレは兄弟のシモン・ペテロを連れてくることができた。

43節からのピリポとナタナエルの召命では、まず、ピリポが「従って来なさい:ακολουθεω(アコルーセオー)」と招かれる。
ピリポはどれくらいの時間イエス様といっしょにいたのかは不明だが、その後ナタナエルを導く。
しかし、それにより、実は、その前にイエス様がナタナエルを「見たていた(知っていた)」ことが明かされる。
私たちも、実は私たちがイエス様を見る前に、既にイエス様によって知られていた存在。

そして信じた私たちには「あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」(50)、「天が開けて……あなたがたはいまに見ます。」(51)という「見る」が約束されている。

イエス様を、よく見て、従って、とどまり続けることによって、さらによく見られるようになり…という良循環を進めていくことにより、すごいもの!を見ることになる。拍手
author:sa-ru(会堂管理人 おさる), category:建徳の学び, 03:24
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