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立場が変わると、見え方も変わるものですね
パン屋のベンの大作戦『パン屋のベンの大作戦』というアニメビデオ番組のシリーズがあります。
元題は『The Story keepers』 で、聖書(The Story)を守り伝えた人々、という意味です。
ローマ時代、皇帝ネロの迫害の中、聖書を守り伝えた……パン屋のベンと仲間のクリスチャンたち……という架空の人物たちを主人公に描いた物語です。
企画、というか、設定はなかなか面白いのですが、アニメの出来としては……ボクが小学生のころ、夕方の「再放送洋物アニメ」のような感じで、一時代……いや二時代昔の作品レベルで……作画だけでなく、ストーリーも……で、ボクにとっては評価の低い作品だったのです。
そう、まるで『仮面ライダー ディケイド』のように、設定は良いのに、ストーリーが破綻している……
と、思っていたのです。

ところが、先日、『パン屋のベンの大作戦』を見る機会があり、認識が変わりました。

『パン屋のベンの大作戦』って、良いかも。

何が良いかと言いますと……
孤児たちの親がわりをしているベン夫妻が、子供たちの状況に即して、聖書の話し(イエス様のなされたことや、教えられたこと等)を語って、励ましたり諭したりすることです。

以前に見た時は、それら聖書の話しをするために、ベンたちの出来事が「とって付けられた」ように感じたのですが、
今回は「こんなふうに、日常生活の中で、聖書によって子供たちを励ましたりできれば良いなぁ」と、しみじみ思ったのです。

この感じ方の違いは……ボクの立場が変わったから、だと思うのです。

前に見た時は、ボクはまだ独身でした(ずいぶん前ですね)。
今は、結婚して子供がいます。
親として子供を養育する立場です。
この「子育てに悩んでいる」今の自分にとって、ひとつのモデルとして見えたのです。
立場や必要が変わると、同じものでも見え方が変わりますね。

聖書全体が、ボクたちに対する神様からの励ましです。
それなのに、せっかくのその励ましを日常生活で活かせず、頭ごなしに子供に小言を言うことのいかに多いことか……。

もっと聖書の恵みに生きる者でありたいです。
author:sa-ru(会堂管理人 おさる), category:レビュー, 21:56
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何と戦うのか
先日、ある方とナルニア国物語の話しになり、ボクら夫婦は、つい、熱を込めてナルニアから考えさせられたことを語ってしまいました。
その時、相手の方はこうおっしゃったのです。
「でもナルニアって戦いばっかりでしょう。
『神様や人生のことを教えられる』と言うけど、争いや戦いを奨励するわけ?」
ボクは意図がよく取れなくて
「え? だって『人生は戦い』でしょう?」
すると
「確かに、ライバルと戦ったり、社会と戦ったり、いろいろ戦うことがあるけど……。」
それを聞いて、ようやく何が食い違っているのか分かりました。
「いや、『人生は戦い』って、他者に対する戦いじゃなくて、内面の戦いですよ。
自分の弱さや限界と戦い、誘惑や罪と戦う、その戦いのことです。
誘惑や罪に負けてしまう弱さを持つ自分を認め、それと対峙し、戦っていくことで人格は成長していくものですよね。」
ようやく、相手の方もボクらの言わんとすることを理解してくださいました。

……「戦い」ということばで、他者との戦いをイメージしてしまうと、ナルニア国物語のメッセージを取り損ねてしまうでしょうね。

聖書もそうですね。
自己の内面のことを、他者とのことだと勘違いすると、意味を取り損ねてしまうでしょう。

ちなみに、ナルニア3のメインテーマをざっくりと言ってしまうと、「誘惑との戦い」です。
クリスチャンであろうがなかろうが、大事なことですよね。
(他にも多くの教訓がありますが。)

「誘惑に負ける」ことを「自分に正直」と言い替え、「罪に陥ってしまう弱さ」を「強さ」とする風潮がある社会の中で、ナルニア3が一石を投じてくれればいいな、と思います。
author:sa-ru(会堂管理人 おさる), category:レビュー, 18:00
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泣いてきました Part 2
とんとんです。
さて、一回だけじゃ、あの興奮を語りきれず、「とんとんの、勝手に解釈!!ナルニア国物語第3章 Part2です。
(今回もネタバレありなので、ストーリー重視の方は映画を見た後で読んでくださいね。)


Part1で、少しルーシーのことに触れました。彼女は、姉のスーザンのように美しくなりたいという思いを強く持っています。第3章でもスーザンが少し出てきますが、彼女は更に美しさを増し、男性を惹きつけてやまない女性的な魅力に満ちています。

ルーシーは、第1章・第2章ではまだ幼く、短剣を振るうのがやっとでした。(もちろん、アスランへの思いは誰より強かったですね)。しかし、今章では、普通の剣を振るい、まさに「雌ライオン」(前章参照)のように勇敢に戦える女性に成長しています。そんな彼女でしたが、スーザンへの強い羨望のゆえに、「声の島」で誤った選択をしてしまいます。魔法使いコリアキンの館で、様々な魔法が記されている本から、「憧れの人の美しさを手に入れる魔法」のページを破り取ってしまいます。アスランの警告の声があったにも関わらず…。声の島を出航し、荒れ狂う海の中、船は思うように進みません。そんな深刻な状況の中、眠りから覚めたルーシーは、この魔法を試します。見る間にルーシーの様子が変わり、その姿はスーザンそのものになります。場面は屋外のパーティー会場、美しい人と呼びかけられ、写真を撮られようとする彼女、その両脇にはエドモンドとピーター。「お母さんが喜ぶぞ、兄妹揃っての写真だ。」とピーター。「兄妹揃って?私は?」とスーザンの姿をしているルーシー。「『私』って?」と笑いながらエドモンドが問い返す。「ルーシーよ!」とルーシー。「ルーシーって?」とエドモンド。「何かが変よ。ナルニアに帰りましょう。エドモンド!」と叫ぶルーシー。「ナルニアって?」と不思議そうに応えるエドモンド。そこにカメラのフラッシュが光る。場面は変わり、ルーシーが船室の鏡の前にたたずみ、その傍らにアスランがいます。「私はスーザンになりたかったわけではないの。」と言い訳をするルーシーに、厳しい口調でアスランが語りかけます。「ルーシー、お前が最初に兄さん達をナルニアに連れてきた。お前がいなければ、兄さん達はナルニアに来ることができなかっただろう。」 そうして、更にはっきりした口調で、「自分の価値を知れ!」そこで、今度こそ本当に、ルーシーは眠りから覚めます。
「自分の価値を知れ!」ですよ!!
どんなに厳しい口調であっても、これほど幸いなことばがあるでしょうか!これまた、クリスチャンにとってたまらないイエス・キリストからの声かけです(でも、これは全人類に対する声かけでもあります。)。ついつい自己卑下しがちな者たちに、イエス・キリストはこう語りかけています。「私が、神であるにも関わらず、人としてこの世に生まれ、十字架にかかっても救いたかったあなたの価値を知りなさい。」号泣です。

後半、ある幼女がルーシーに、「大きくなったら、あなたのようになりたい。」と語りかけますが、ルーシーは、彼女を抱き寄せながら「あなたは、素敵なあなたになるの。」と応えます。ルーシーは、自分が自分であることの大切さを確かに学び取ったのです。

カスピアン王については、結構、順調に強く成長していると感じたせいでしょうか、あまり「おお〜」と思うところがなかったのですが、一箇所だけ、くらやみ島に出発するとき、彼が部下に言った言葉が「強くあれ。」でした。(これは、わかる人にはわかるというところでしょうか…)

最後は、リーピチープです。これが一番書きたかった…。この勇敢な騎士は、常に前向きです。なぜ彼が前向きかというと、目の前の困難ではなく、アスランに目を向けているからです。彼が剣の使い手であるのも、アスランのため、常に戦いの備えをしているからです。前章では、勇敢だけれど、栄誉、名誉にこだわりがあるように見えましたが、今章、彼は、強いけれど、弱い者への思いやりが深い、アスランの勇者へと成長していました。ユースチスに対して最初から関心を示し、自分の欲望のためドラゴンに変えられたユースチスの悲しみをあざ笑うことなく寄り添う。邪悪な<霧>との戦いに、怖気づくドラゴンユースチスに「逃げるな」と叫び、ともに戦いに挑む。まさに、彼のおかげで、ユースチスは、ナルニアに属する者、アスランに属する者になる準備ができていくのです。
くらやみ島での戦いが終わり、アスランの国へ向かう岸辺についたとき、この勇敢な騎士は、アスランに願い出ます。「私は小さな者ですが、ずっとあなたの国へ行きたいと願っておりました。」これに対するアスランの応えは、「お前こそが、入るにふさわしい。」でありました。アスランの国に行くには、もう一つの水の壁を越さなければなりません。リーピチープは、「これはもういらない」と言って剣を置き、(多分アスランが彼のために用意した)小船に乗り込みます。後ろを振り向かず、彼は長年切望していたアスランの国へとまっすぐに進んでいくのでした。
ここで、もう私の泣きは止まらなくなりました。今、思い出しても泣けます。クリスチャンとして、まっすぐにイエス・キリストの国を見つめ切望し、前に進んでいけたら。「主よ。私は小さい者ですが、ずっとあなたの国へ行きたいと願っておりました。」


御光の輝きわたるはるかな御国  そこは憎しみも嫉みも穢れもなく
聖なるイエス君います 聖き御前に 拝しまつる我は楽し とこしえに楽し

幸いの尽きせぬ所はるかな御国 そこは悲しみも憂いも死もまたなく
愛するイエス君います 聖き御傍に 仕えまつる我は嬉し 喜びは絶えぬ

麗しく慕わしきかな はるかな御国 そこは苦しみも悩みも叫びもなく
やさしいイエス君います 聖き御元に 憩う我の心満ちて 慰めは尽きぬ

 〜「みひかりの輝きわたる」尾山令仁(聖歌総合版357 聖歌の友社)〜     
JUGEMテーマ:映画
author:とんとん, category:レビュー, 00:38
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泣いてきました Part 1
ナルニア国物語 第3章お久しぶりです。とんとんです。

夫の記事にあったように、先日、子ども達と一緒に、「ナルニア国物語 第3章 アスラン王と魔法の島」を観てきました。
一言、「泣きました!!!」 映画が終わっても、泣けて泣けて、立てなかった…子ども達は早く帰りたがっていましたが。

ファンタジー物としても面白いナルニア国物語シリーズですが、クリスチャンにとっては、ファンタジー以上。原作者のC.S.ルイス博士はクリスチャンで、物語という表現方法をとって、聖書の真理を分かりやすく表そうとしたのです。映画は、原作とは大分違っていますが、それでも原作の精神は十分汲んでいると思いました。

ということで、本日は、「とんとんの、勝手に解釈!!ナルニア国物語第3章」をお贈りします。
(以下の記事はネタバレありなので、ストーリー重視の方は映画を見た後で読んでくださいね。)

第2章の最後でアスランが予告した通り、第3章では、ペべンシー兄妹の中では、次男エドモンド、次女ルーシーだけが、そして、それに加えて、ひねくれ者で意地悪な、従兄弟ユースチスが一緒にナルニア国へ導かれる。(このユースチス君がすごい!最初はめちゃくちゃ嫌なやつ…顔つきも。ところが、アスランに出会ったあとの彼は、まさに別人!!次章が楽しみですな。)
自分達の世界で、エドモンドとルーシーは、従兄弟の家に居候中。肩身が狭い。しかもエドモンドは従兄弟のユースチスと一発触発という状態にある。かたやピーターとスーザンはアメリカにいて、それなりに楽しくやっている。第1章でも、エドモンドの、次男であるがゆえの不満が、白い魔女への加担の原因になるが、この章でも、エドモンドの中で、それは完全には解決されていない。
第1章、第2章では無邪気で可愛かったルーシーは、今章、思春期に入り、女らしさ、美しさへの強い羨望を心に持っている。(まだ幼さは残っているけれど、ルーシーは、十分、美しかったです!)
秘めた思いを胸に2人は、ユースチスと共にナルニアの海に導かれ、カスピアン王(前章では王子)とリーピチープと再会する。カスピアンは、ミラースに追われた、先王(カスピアンの父)の七人の忠臣を探して、東の海へと航海中であった。

さて、第3章では、「剣」がキーワードのようです。

最初の方に、カスピアンとエドモンドが剣術の練習をするシーンがあります。カスピアンがエドモンドに「強くなったな」と声をかけます。ここで、「おお〜」と思いました。クリスチャンにとって「剣」といえば、「神のことば」。「剣術が強くなる」ということは、実にクリスチャンとして成長をしていること。
しかし、エドモンドはいまだ克服し得ない次男としての劣等感ゆえ、また、かつて自分の裏切りによりアスランが犠牲になったという過去の苦い経験により、物語中、幾度か、白い魔女に誘惑されることになります。「おまえは死んだはずだ!」と白い魔女に叫ぶエドモンド、それに対して「私はおまえの心にいる」と応える白い魔女。な〜んて、クリスチャンの心の葛藤を克明に表しているのでしょう。イエス・キリストの十字架のみわざにより、すべての罪が赦されても、時に、自らの過去の罪を思い出し、その罪の意識に苛まれてしまうクリスチャン。さあ、白い魔女の思うつぼだ!!というときに、エドモンドは、アスランからピーターが受けた剣(今章、彼はこれを使いこなせるようになっているというところもなんとなく…でしょ)で、勝利を勝ち取るのです。(彼1人の力でなく、陰にユースチスの助けがあるのですが。)

アスランへの忠誠心熱いリーピチープは剣術に優れたネズミの騎士。朝びらき丸(ナルニア海軍で一番速い帆船)に乗り込んだ後も、自分勝手な振る舞いを続けるユースチスに剣を渡し、練習をつける(?)が、ユースチスにはうまく使えない・・・まだ、アスランと出会う前のユースチスには、剣が使えないとは、これまた意味深長です。

また、今章では、7本の魔法の剣が大きな意味を持ちます。邪悪な<霧>を追い払うためには、この7本の剣をアスランのテーブルに集めなければなりません。7本めの剣は、ユースチスがアスランと出会うのに「重要な鍵」となります。自分の欲望のため、ドラゴンに姿を変えられたユースチスは、リーピチープの思いやりに触れ、友情を育み、ともに、邪悪な<霧>との戦いに挑みます。が、戦いの最中、7本めの剣が、誤って彼の(ドラゴン)腕に刺さり、アスランのテーブルのあるラマンドゥの島へ戻ります。そこで、アスランに出会い、元の姿へ(あるいは、新しくされたユースチスと言いましょうか…)と戻ります。イエス・キリストと出会うために、「神のことば」に心刺される必要があると取ってしまうのは私だけでしょうか?
元の姿に戻ったユースチスは、7本めの剣をアスランのテーブルに乗せようと急ぎます。(6本は、朝びらき丸がくらやみの島に乗り込む前に揃っている。)邪悪な<霧>はそれをさせまいと、ユースチスを襲いますが、ここで、彼は剣を振るう!達人とは決していえないけれど。一瞬、霧がひるんだ隙に、剣をテーブルへ…まさに、この瞬間が、エドモンドが白い魔女に誘惑され、最も苦しんでいるとき。7本の剣、エドモンドの剣にアスランの絶大な力が現れ、邪悪な<霧>の完全敗北となりました。
エドモンドの勝利が、ユースチスの働きによるもの(この段階では、誰もユースチスの動きを知らない)というところにも泣きが入ります。クリスチャンは1人で、自分をイエス・キリストから引き離そうとする、誘惑と戦うのではなく、仲間のクリスチャンに助けられながら戦っているのです。感謝です。

「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」(聖書 エペソ6:18)
author:とんとん, category:レビュー, 06:21
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ナルニア3でもらい泣き
ナルニア国物語の第3章「アスラン王と魔法の島」がついに公開されましたね。

第1章、第2章とディズニーが製作・配給で、この第3章も、元々はディズニー配給のはずでしたが、何か(?)の理由で撤退して……暗礁に乗り上げてしまっていました。
それが、20世紀フォックスの配給により、ようやく、ようやく、映画になりました!
おめでとう!!よかった!

本来なら、ナルニア国物語の3作目は『朝びらき丸 東の海へ』というタイトルですが、「原作と違うものにする」という監督のこだわり(?)からでしょうか…タイトルを変えたようです。
それでキャッチコピーが「誰も知らないナルニアへ」というわけですね…。

どういったものが出来上がるか、ナルニアファンのボクとしては心配半分・興味半分でした。
で、早速、先週の土曜日、妻と子供たちが見に行ってまいりました!
……ボクも行きたかったのですが、用事が有りまして……残念。

帰って来た妻の言葉が
「もう号泣! 良くできてる!
ストーリーは原作と変わっているけど、原作の意図はしっかり継承していた!
前作よりいい!」


ひょっとして、ディズニーの呪縛(?)を解かれて良くなった、ということでしょうか。

ボクとしては、ナルニア国物語という偉大な寓話の中で、『朝びらき丸 東の海へ』は小冒険集のイメージがありました。
1巻、2巻は巻全体でひとつの大冒険ですが、
この第3巻は、島毎の独立した冒険で成り立っているからです。
(むろん、全体としての繋がりはありますよ。)

ナルニア国物語の冒険は、それぞれに人生訓を含んでいて、単なる物語ではなく、自分の生活に当てはめてみることができます。
それを説教臭くなく、読者を引き込みつつ、その目線で考えさせてくれるのが、著者のC.S.ルイスの優れたところでしょう。

それらの教訓はクリスチャン生活にぴったり当てはまるものですが、普遍性があるものなので、クリスチャンでない方にも、とても有益なものです。

映画の感想を妻が話すのを聞きながら、ボクも感動して、思わずもらい泣きしてしまいました。

そして
「絶対、あなたも見るべき!」
と、妻に強く勧められてしまいました。
はい、是非、そうしたいと思います。
author:sa-ru(会堂管理人 おさる), category:レビュー, 17:03
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『だから、あなたも生きぬいて』を読みました
何年か前に話題になった本『だから、あなたも生きぬいて』を読みました。
大まかな荒筋は聞いていて、興味はあったのですが、今まで読んでいませんでした。
ところが先日、職場の先輩が休憩時間に読んでおられたので、思わず声をかけてしまいました。
「その本、話題になった本ですよね!」
すると、読み終わったら貸してくださるとのことで、翌日、お借りいたしました。

一気に読んでしまいました。
いろいろ、考えさせられました。

ボクが一番に読む本は聖書ですが、この本のように、クリスチャンではない人が書かれたものでも、「有益な考えさせられる本」は、なるべく読みたい……と思っています。

以下は、ボクが読んで、印象に残ったことです。

著者が自殺未遂した後、学校に再び行って「死に損い」とののしられた時に思ったこと…

〈傷つき弱っている者に対し、平気で誹謗中傷する。
こいつらに人間の心があるのか。
もしこいつらが人間というのなら、私は、今すぐ人間をやめてやる……〉


わかります…その気持ち。
経験をしていないボクが「わかる」なんて言うのは失礼かもしれませんが……。
人の心の醜い部分・罪の性質の現れに直面するときに……、
しかも、その悪意が自分に向けられたときに……
人への絶望と憎悪が沸いてくるのは自然なことでしょう。
人の内にある「罪」の恐ろしさを感じます。


著者を立ち直らせた「おっちゃん」の言葉……

「確かに、あんたが道を踏み外したのは、あんただけのせいやないと思う。
親も周囲も悪かったやろう。
でもな、いつまでも立ち直ろうとしないのは、あんたのせいやで、甘えるな!」


この言葉が著者に届くには、おっちゃんの生き方があるのだと思います。
ただのことばだけでは、どんな良いことを言っても届かないですよね。
そして、ポイントをついた「内容」…が大事ですね。
怒りや悲しみで混沌としている心を解きほぐす内容……
この場合は、他者の責任を認め、それに関する本人の主張を肯定しつつ、適切な本人の責任部分を指摘する、というものですね。
これを見極めることと、適切に指摘することは難しいですが、大事ですね。
これを本人が納得した時に変化が起こります。
著者ほどではありませんが、ボクも時々自分の責任範囲外のことに巻き込まれた場合に、他者への非難の思いに捕われて、自分にできること(責任)を見失うことがあります。
他からの不当と思える扱いや、逆境の中でも、くじけずに自分のするべきことをする……。
難しいですが、大事ですよね。


著者が司法試験に合格し、司法修習生として採用された時、著者のお父さんが「おっちゃん」に言った言葉……

「大平さん。最後の頼みがあるんですわ」
「光代を、子どもにしたってもらえませんか?」
「養子にしてほしいんです」
「わし……〈中略〉……この子が中学生の頃、苦しんでいるときに、わしは守って助けてやることができなんだ……。今はなんとしてもこの子を守ってやりたい……」
「わしは、もう長くありません。生きてこれから先この子を守ってやることができません。頭を下げてお願いすることぐらいしか……お母ちゃんとも相談してそう決めたんです……」


すごい親だ、と思います。
最近はそれほどでもないかもしれませんが、ひとり娘の場合、
「婿さんを迎えて、家を継いでくれ」
…と、親ごさんが希望することが、ままあると聞いています。
それを、著者の御両親は子供本人のために、法的に子供を手放す、という決断をするわけです。
娘の未来を守るために、自分のことや家のことを求めずに、娘にとっての最善を考える……自分を無にして……。
親の「与える愛」ですね。
聖書では、この「親の与える愛」をひきあいにして、神様の愛(アガペー)を紹介していますが、そうだなと思います。

この言葉を読んで、先日読んだ本にあった天に召されたクリスチャン女性の言葉を思い出しました。
お子さん達と旦那さんを残して天に旅だたなければならなかったその方は「子供たちのことを任せられる方がいるから安心です」と言われたそうです。
「任せられる方」とはイエス・キリストのことです。
自分はもう子供たちを世話することや守ることはできないけれど、イエス様にお任せできるので安心だ、というのです。

残される人の幸せを願う時、託せる相手の有無は大きいでしょう。
そうした時、イエス様という確実に頼れる方がいるのは幸いだな、とあらためて思いました。
JUGEMテーマ:読書
author:sa-ru(会堂管理人 おさる), category:レビュー, 12:55
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インドウェリング (レフトビハインド (7))
評価:
伊藤 肇,ティム・ラヘイ,ジェリー・ジェンキンズ
いのちのことば社フォレストブックス
¥ 1,890
(2006-01)
もう、2年近く前に書いたレビューの原文を公開します。
当時、母はガンと闘病中で、ボクは介護をしながらこのレビューを書いていました。
依頼文字数を大幅にオーバーしてしまったので、編集者は縮めるのに苦労したようです。
webなら制限なしですし、2年経っていますので、原文のまま掲載します。

ギザギザギザギザギザギザギザギザギザギザギザギザギザギザギザギザギザギザ

ついにレフトビハインドシリーズの第7巻が発売された。
7と言えば完全数。いやがおうでも期待が高まる。
前巻の最後で暗殺されたニコライ閣下は如何にして復活するのか。
ニコライファンを自認する私としては見逃せない。
「クリスチャンなのに反キリストのファンなのか」と怒られそうだが、フィクションなので、ご勘弁いただきたい。サタンの最高傑作である反キリストは非常に魅力的であるし、キリストを模倣しつつ本質を外す反キリストは模倣の仕方が興味深いのである。『羊たちの沈黙』や『ハンニバル』のレクター3部作の主人公ハンニバル・レクター博士も反キリストをイメージしていると思われる(第一部は『レッド・ドラゴン』参:黙14章)が、キリストの逮捕・裁判・十字架について考えさせられるものが多くある。

この第7巻は時間的にはニコライ閣下が暗殺されてから復活するまでの3日間を描いている。短い期間だが、密度は濃い。
前巻では混乱の内に殺されたニコライ閣下の最期の様子が、関係者の証言などによって明らかにされていく。容疑者となったレイフォードはどうやって逃亡するのか、気になる真犯人はだれか、など見所満載である。
また、小さな記事だがデイビットの悔い改めのシーンは信者の歩みとして考えさせられた。
そして、今までの巻ではトリビュレーション・フォースの面々にいいようにあしらわれて気の毒ですらあったニコライ閣下の腰近着フォルチュナートが、いよいよというか、ようやくというか、ついにというか、力を発揮する。あなただったのか、という感じである。
ニコライ閣下の復活シーンは圧巻である。すごい、かっこいい!と言っていたら妻が「そんなにかっこいい?イエス様の足元にも及ばないじゃん。」…確かに内容としては。でもハデさかげんがすごい。それに惑わされない妻よ、あなたはえらい。

この巻は黙示録12章と13章を主に描いている。意見はいろいろあると思うが、解釈の一つとして面白い。
12章の描き方は、なるほど、この手があったか、という感じである。
13章13節はそのままやってのけてしまうし、14節はこういう経緯ならありうる…と思えるし、15節はなるほどこのシュチュエーションなら驚く…と納得させられる。
今までの巻もそうだが、このシリーズは読んでいて「そうだったかな?」と聖書を開いたり、「ここをこう描いたのか」と聖書を確認したり、など、馴染みの薄かった黙示録を身近に感じさせてくれる本である。
黙示録は途中いろいろあるが、最終的に永遠の希望を語る書である。私(というより妻)は現在、末期ガンの母を在宅で看護している。この原稿が本に載るころには、おそらく看護は終っているだろう。母は今、しきりに黙示録21章の新天新地の話をする。信者にとって最終的な希望はやはりそこだと実感させられている。
このシリーズでは21章までは行かないと思うが、そこまでの過程を噛み砕いて示してくれている。立場の違うかたでも、ご一読をお奨めする。
author:sa-ru(会堂管理人 おさる), category:レビュー, 22:42
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