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ルカ1章前半
片岡町キリスト集会の水曜の晩の聖書研究会では、今週からルカの福音書に入ります。
13日は1章の前半(38節まで)を読みました。
クリスマスシーズンに合わせたわけではないのです。順番に読んでいたら、たまたま…
これって、神様の導きですかね?
…でも、降誕場面(2章)は27日…クリスマス後…になるのです。ちょっとズレますね。

さて、この中のルカ1章20節はボクにとって思い出深いことばです。
「ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、おしになって、ものが言えなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。」

16年前、ボクはこのことばに背中を押されて、ある、無謀な(と思える)チャレンジをする決心をしました。
順風満帆…ではありませんが、多くの恵みをいただく日々を送っています。
感慨深く読んでいました…。

この箇所からも、一つだけでなく、色々なことが教えられます。
別な機会に書けるかなぁ……?

ともかく、特別集会だけでなく、通常の集会でも、クリスマスの恵みを味わえますよ、というお知らせ(?)でした。

通常の集会は
  日曜日 午後2時〜3時
  第1&第3土曜日 午後2時〜3時
  水曜日 夜7時半〜9時
     です。

JUGEMテーマ:クリスマス

author:sa-ru(会堂管理人 おさる), category:聖書研究会, 22:56
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マルコ7章
今、片岡町キリスト集会では、水曜日の晩の聖書研究会で「マルコの福音書」を読んでいます。
先週は「7章」を読みました。
その中で考えさせられたことの一部を紹介します。

7章は3つの部分で成り立っています。
[法学者たちとの「汚れときよめ」の論争
▲好蹇Ε侫Д縫アの女性の娘のいやし
ろうあ者のいやし

,痢岷れときよめ」の論争で、学者たちが「汚れは外から入ってくる」と考えていたのに対し、イエス様は「汚れは内から(人の心から)出てくる」と教えられたのは、人の陥り易い過ちで、今の時代に必要な教えです。
そこは良いのですが、今までボクは、イエス様の返答の中で言われたコルバンの話がよく分かりませんでした。
(ご存知ない方のために)
コルバンとは「神へのささげ物」ということで、旧約聖書の律法では、老いて働けなくなった親の扶養が子ども世帯に命じられている(マルコ7:10)のですが、学者の宗教的伝統では、子どもが「神にささげることにしたから扶養できない」と言えば扶養義務を免れられる、としていたのです。
端的に言えば、「『神のため』になれば『人のため』はしなくて良い」という考えで、イエス様はこれを「神のことばを空文にしています」と指摘しているのです。

話としては分かるのですが、「汚れは外からか、内からか」という論争の中で、なぜこのコルバン問題が出てくるのか……。
ある兄弟が教えてくれました。「関係性の問題です。」

「汚れは外から入ってくる」と考えていた学者たちは、手を洗い、食器を洗い、からだを清めていました。外からの汚れを持ち込まないようにしていたわけですが、全て自分個人で完結するもので、最も基本的な戒めである「神と人とを愛する」という他者との関係でのことは全く意に介していません。
コルバンのことも、神様を口実に親(人)との関係を切っており、関係性の欠如という点で同じなのです。

そして△魯好蹇Ε侫Д縫アの女性の信仰によって、この女性の娘がいやされる、という記事です。
イエス様から賞賛されたこの女性の願いは、自分のことではなく「娘のいやし」でした。
自分個人ではなく、他者のため(自分の娘、ではありますが)の信仰で、そこには親密な親子関係があります。
さらにの「ろうあ者のいやし」でも、「人々」が、ろうあの人を「いやしてほしい」と連れてくるのです。
自分のためではなく、地域の病んでいる人のための信仰で、そこには地域の人間関係(ご近所付き合い)があります。
この地域の人々は、この後、イエス様の言いつけに従わない、という問題を起しますが、それでも関係性に生きていました。

人間関係は面倒です。
親子関係も、ご近所付き合いも。
職場や学校、はたまた教会でも、人の集まる所には多少なりとも軋轢があります
でも、聖書はそうした中で「他者に対して誠実を示す」ように勧めているのです。
この関係性の中で生きることは、自分だけではコントロールができません。
でも、自分を守ろうとして自分の殻に閉じ籠るのは、良くないですよね。
「汚れは外(相対する他者)から入ってくるのではなく、自分自身の心から出てくるもの」と心得、イエス様の助けを得つつ、人との関係の中を歩んでいきたいものです。

外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。 (新約聖書 マルコの福音書7章5節)

JUGEMテーマ:日記・一般

author:sa-ru(会堂管理人 おさる), category:聖書研究会, 22:25
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エリヤの勘違い(?)
※今回の記事は「かなり自分勝手目線」ですが、ご容赦ください。

介護の仕事に就いて半年たちました。
職場の皆さんはとても親切なので感謝なのですが、いろいろなことが「初めてづくし」で…しかも(年齢のせいか)のみこみが遅く…ご迷惑をかけまくっています。すみません。

さて、この仕事に就いて、仕事と直接は関係ないのですが、ボクにとって一つ驚きがありました。
それは、ボクの名前(苗字ではなく、下の名前)に対する周囲の反応です。
ボクの名前はクリスチャンの中ではポピュラー…とまではいきませんが「あちこちで見かける名前」です。
比較的メジャーなところでは、伝道者でアーティスト、○○大学の先生…等。
以前に20年務めていた会社はクリスチャン企業だったので、「ああ、その名前ね、○○牧師の息子さんもその名前だったなぁ。」というような感じで過ごしていました。
ところが、今の職場では……
「まあ!珍しい名前!そんな名前、はじめて見たよ」
と、多数の方に言われるのです。
確かに、クリスチャンかその関係者でなければ、この名前は見聞きしないでしょうね…。

実は、介護の仕事に就くにあたって…自分なりに聖書を読んで祈っての結論ではあるのですが…大きな決断(厳しい見方をすれば「妥協」)をしました。
今まで「必須条件」にしていた「日曜休み」を「可能な限り」にしたのです。
教会に住んで、教会の会堂管理をしていながら、「日曜日に教会に出席できない」条件を飲んだのです。
日曜が休める仕事の求人に、片っ端から応募して、どこも不採用で、生活していくのが……。

…話がズレたので、元に戻しますが、介護の仕事って…職種によっては日曜が休めるものもありますが…日曜祝日関係無しなのですよね。
よって、日曜日に教会に行きたいクリスチャン達にとって「介護の仕事は避けたい」と…ボクは思いっきり敬遠していたわけです。
でも「世の中に必要な仕事を、他の人に押し付けるだけでいいのか?」という素朴な疑問は心の中に持っていました。

ともかく、クリスチャン人口の少ない日本の中で、さらにクリスチャンの居ない業界…なんですよね。
ボクの名前が「珍しい」のも当然なわけで。
(だって、息子の塾の申し込みに行った時、塾の先生はボクの名前を見て「あぁ」って分かりましたし。)

ところが、先日来「○○集会(教会)の○○さんも介護職なんですよ」「◇◇さんもそうです」という話を耳にするようになりました。
「えっ? こんな仕事しているクリスチャン、ボクだけじゃないの?」
と、驚くボクに「その情報、前に聞いている」と冷静な妻。
…スミマセン、たぶん聞いた時から三歩以上歩いてしまったので…。
聞き流していたつもりはないのですが、自分の身に降り掛かるまで、切実なものとして記憶に残らなかったのだと思います。
薄情なヤツでスミマセン。

そして、先日13日、大京町など各地で「特別聖書学び会」が開催されている中、ボクは出勤のために参加できず…
職場で「今頃、みんな(ボク以外のクリスチャン達)は聖書メッセージで恵まれているんだろうな…」と思っておりましたら、いつも出入りしている業者さんが声を掛けてこられました。

「あの…おさるさんって…片岡のかたですか?」
はい、そうですけど?
「ひょっとして、教会のかた…ですか?」
えっ? 教会の者です。片岡町キリスト集会の…ご存知なんですか?
「私、○○集会(教会)の△△です。以前に片岡集会にはおうかがいしたことがあります。」
え〜!! こんなところ(失礼!)でクリスチャン!
居るんですねぇ。

意外な所での出会いに、とても励まされました。

そして、このところ水曜晩の聖書研究会で読んでいた預言者エリヤの記事を思い出しました。
ボクとはレベルの全く異なる緊迫した状況下での話です。

預言者エリヤが活動していた時代、時の王は神様に従うことを良しとせず、預言者たちを殺害し、神様に従う者たちを迫害していました。
エリヤは2回、次のように神様に訴えています。

「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」(聖書 1列王記19章10、14節)

エリヤは「ただ私だけが残りました」と言っています。
私、一人だけしかいない…と思っていたのです。
しかし、神様の答えは違いました。

「わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。」(聖書 1列王記19章18節)

エリヤ一人だけではなく、7000人いるよ、と言うのです。
事実、その後(20章)別の預言者(名前は出ていない)が王に遣わされ、22章では別のミカヤという預言者が活躍します。
さらに言えばエリヤが「私だけ」と言っている前の18章で、王の高官のオバデヤという人が…言ってみれば隠れキリシタンで…100人の預言者をかくまっていることが知らされていたのです。

「私だけ」と思っていても、実はそうではない。
…しかも、その情報は前に聞いていたりする…。

聖書研究会で読んでいた時は「エリヤさんたら、聞いているくせに、勘違いして…」と思っていましたが、渦中にいると、案外そのようなものかもしれないな…と考えさせられました。

「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」
(聖書 ヘブル13章5節)
author:sa-ru(会堂管理人 おさる), category:聖書研究会, 06:56
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ヨナタンの決断
片岡町キリスト集会では、水曜の晩に「聖書研究会」を行っています。
今、サムエル記を読んでいますが、先日は第一サムエル記14章を読みました。

心の燈台 内村鑑三この章では、サウル王の息子のヨナタンが活躍します。
ヨナタンと言えば、『上毛かるた』「心の灯台、内村鑑三」の内村鑑三さんが大好きだったキャラクターです。
確かに、かっこいい…かもしれません。

状況はこうです。
ペリシテがイスラエルに攻めて来ました。
その数は「海辺の砂のよう」で、更に戦車3万と騎兵6千がいるのです。
対するイスラエル軍は「おおよそ600人」。
しかも、イスラエル軍でまともな武器(剣や槍)を持っていたのはサウル王とヨナタンの2人だけ。
圧倒的な戦力差にイスラエル軍は震えあがっていました。

そんな中で、ヨナタンは側近の部下と、たった2人だけで、ペリシテ軍に挑むことを決意します。
「神様が一緒に戦ってくださるなら、少人数でも勝てる」と思ったのです。
問題は「今ここで戦うことが神様の御心かどうか」でした。
ヨナタンは、祈りともつかぬ言葉をつぶやきます。

「今われわれは、あの者ども(ペリシテ軍)のところに渡って行って、彼らの前に身を現わすのだ。
もしも彼らが、『おれたちがおまえらのところに行くまで、じっとしていろ。』と言ったら、われわれはその場に立ちとどまり、彼らのところに上って行くまい。
もし彼らが、『おれたちのところに上って来い。』と言えば、われわれは上って行こう。
…これがわれわれへのしるしである。」(8〜10節)

神様の御心でなければ、敵軍のことばで止めてください、ということです。
そして、ヨナタンと道具持ちがペリシテ軍の前に出て行くと…。
ペリシテ軍はそれを見て
「やあ、ヘブル人が、隠れていた穴から出て来るぞ。」(11節)
「おれたちのところに上って来い。思い知らせてやる。」(12節)

それを聞いてヨナタンは、神様からのゴーサインが出た、と確信し、たった2人で攻め込みます。
そして…大勝利をおさめるのです。

ヨナタンがこの時、実際に戦ったのは20人ほどだけでした。
2人対20人、というのも大変かと思いますが、何万人を相手にした訳ではないのです。
でも、その20人との戦いによって、他の兵士たちに混乱が起こり…聖書には「主がそのようにされた」と書かれています…ペリシテ軍は自滅するのです。


非常に示唆に富む出来事で、色々なことを考えさせられます。

今回、ボクが思ったのは、「神様の導きと状況判断」です。
「神様の導き」というと、何か天から声がして「これをこのようにしなさい」と指示がある、かのように思いがちです。
聖書の中に、そうした例はありますが、それらは割合としては少数で、大半は、このヨナタンのように、状況判断(この非常時に、まともな武器を持っているのは自分だけ・この状況で民を守るのは自分の使命)で進んでいきます
自分が今、ここに置かれている(神様によって遣わされている)意味を考える時、「多勢に無勢だから止めよう」になるか「神様のゴーサインがあれば勝てる」になるか、判断が別れるのでしょう。
「神様の導きに従う」とは、自分で神様の御心と自分の置かれている意味をよく考えて、積極的に行動していくことだと教えられるのです。
状況によっては、「今は祈って待つ」という判断になることもあるでしょうが、主体的に人生を歩む姿勢は変わらないと思います。

そうは言っても「神様にある状況判断」は難しいですよね…。

「神様の導きと状況判断」祈りつつ、よく見て、よく考えて、思い巡らして、積極的に歩みたいものです。
author:sa-ru(会堂管理人 おさる), category:聖書研究会, 08:05
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ルツ記から思うこと
水曜日の「聖書研究会(聖書を読む会)」では、早くもルツ記が終わってしまいました。
ついこの間入ったばかりなのにもう終わりです。
…ルツ記は4章しかないですからね。

今回、ボクが感じたのは士師記との関連性と「放蕩息子のたとえ」との類似性です。
(くどいようですが「今回ボクが教えられたこと」であって、これがすべてではないですからね。)

士師記との関連性というのは、ルツ記の時代背景が士師記の時代だったというのもありますが、それだけでなく、士師記の最後に付録的に付いている2つの出来事と共通するところがあるのです。
ルツ記を含めてこの3つの話は「ベツレヘム」が関係しているのです。
そして、自分勝手な判断で行動して失敗する…ところまで同じなのです。
ボクは今回、ルツ記の最初の部分(1:1〜5)を読んで、「ルツ記は士師記の第三の付録とも言えるのだな」と思いました。

しかし、ルツ記はその後が違います。
「放蕩息子のたとえ」との類似性とボクが思ったのはそこです。
新約聖書でイエス様が語られた「放蕩息子のたとえ」で、放蕩に身を持ち崩した息子は、財産を使い果たして困窮した時に「父のところでは、食べ物の有り余っている雇い人が大勢いる」ことを思い出し、家に帰るのです。
「天に対して罪を犯し、あなた(父親)に対して罪を犯しました」と言うものの、自分が悪かったとどこまで意識しているのか…方便のように感じるところです。
でも、父親は「息子が帰った」ことを単純に喜んで迎えるのです。

ルツ記も同じです。
ナオミは飢饉のために約束の地・ベツレヘムを離れたのですが、行った先で夫と息子たちに先立たれ、息子の嫁だけが残りました。
稼ぎ手を亡くして、経済的にも困窮したようです。
ナオミは「私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました。」(1章21節)と言っています。
ナオミはベツレヘムの繁栄が回復したことを聞きつけて帰ってくるのです。
そこには、約束の地を勝手に離れたことに対する侘び(?)もなく、飢饉の間その地を守った同胞に対する思いも、なんら現れていないのです。

勝手に出て行って、「困ったから」と、(いけしゃあしゃあと)帰ってくる…。
生真面目な人なら「けしからん!!」と怒りそうです。

しかし、神様はそんなナオミとその連れのルツを受け入れて、大いに祝福し、ダビデ王の先祖とするのです。

無論、そこにはルツの信仰(地上の栄えを超越した神様との関係)と、しゅうとめ孝行する人格の高潔さがありました。
しかし、それにも増して、神様の懐の広さというか、神様がご自分の元に来る人を喜ぶことが現れていると思うのです。

時々、「困ったからと言って、神様にすがるのは勝手に思えるので、教会に行きません」という方がおられます。

そんなことはないですよ。
たとえクリスチャンが「あなたは神様に対するお詫びの気持ちが足りません」と言ったとしても、神様は大喜びして迎えてくださる方です。
author:sa-ru(会堂管理人 おさる), category:聖書研究会, 22:38
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ルツ記に入りました
片岡町キリスト集会の水曜晩の「聖書研究会(聖書を読む会)」は士師記が終わってルツ記に入りました。

何回も読んでいる箇所で、以前に所属していたF集会にいた時には日曜学校で劇にして演じたくらい馴染みの書巻ですが、今回また読み始めて、新たに気づくことがたくさんあります。
聖書って凄いですね。
それらの気づきは、またの機会にアップしたいと思います。

ところで、ルツ記と言えば「しゅうとめ孝行」ですが、先日の「母の日」は、みなさんはいかがでしたか。
日曜学校では子どもたちに母の日企画をしましたが…子どもたちはわかっているのかなぁ…?
いつも家族のために頑張ってくれているお母さんに感謝の気持ちを…。

ルツさんを見習いたいものです。
母の日のカーネーション。奥にあるのが日曜学校で子供達に配ったものです。
author:sa-ru(会堂管理人 おさる), category:聖書研究会, 12:15
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士師記に入りました
昨日の聖書研究会で、いよいよ士師記に入りました。
「約束の地」に入って(救いをいただいて)から「王国時代」(神様の国)になるまでの「過渡期」として、今のボクたちクリスチャンの生活に示唆するところの多い書巻です。
1章でも「主が共におられた」にもかかわらず、主に信頼しきれず、失敗した様子が描かれていました。
自分への教訓としたいと思います。

また、昨晩は「ふたご座流星群」が見られる、ということだったので、聖書研究会が終わってから、子どもたちと外に出て空を見上げて見ました。
20分粘って3個見ることができました。
「群じゃないじゃん」と子どもたちは言っておりましたが…。
街の明るさにまぎれて、わからないものも多々あったのではないかと思うのです。
「闇の中に希望の光が照った」
闇だからこそ見える光がある……そんな気がします。
author:sa-ru(会堂管理人 おさる), category:聖書研究会, 11:33
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ヨシュア記22章
一昨日の聖書研究会は、ヨシュア記22章でした。
兄弟方によって、さまざまなことが学ばれましたが、その中で一つ印象に残ったことをご紹介します。


11節に「うわさを聞いた」とあります。
その うわさ は深刻なもので、事実であれば神罰を招くこと必至、というものでした。
うわさを聞いたイスラエルの人々は、すぐに行動を起こしますが、まず、調査団を当事者の人々のところに派遣します。
そして、相手の弁明・言い分を聞いたのです。
その結果、誤解が解消し、争いが回避され、平和が成り立ちました。

この時のイスラエルの民は偉かったと思います。
うわさだけで判断せず、きちんと相手の言い分を聞き、相手の意図がわかれば「それは誤解を招く『余計なこと』だから、即刻撤去せよ」というようなことを言わずに、そのまま受け入れたのです。

今の私たちにも、大きな示唆を与える出来事だと思います。
うわさに流されないように、そして、グレーゾーンのことについて先走って切ることのないように、ありたいものです。
author:sa-ru(会堂管理人 おさる), category:聖書研究会, 14:30
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「申命記14章」から考えたこと
先日の聖書研究会は「申命記14章」でした。

今回、目についた聖句をご紹介します。

「あなたの神、主の前で食べ、あなたの家族とともに喜びなさい。」(聖書 申命記14:26)

この食事は次の節にあるように、年毎の十分の一のささげものなのです。

「畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず毎年ささげなければならない。」(聖書 申命記14:22)
神様への収穫感謝のささげものなのですが、そのささげかたが最初に挙げた「あなたの神、主の前で食べ、あなたの家族とともに喜びなさい」なのです。

……全焼のいけにえなどとは違い、自分たちで食べるわけですから、「ものをささげている」わけではないですね。
「神様の前で食べる」という「時をささげている」…ということでしょう。
家族単位での宴会…とも言えるような「ささげもの」ですが、場所の他にもう一つ決まりがありました。
それは「町囲みのうちにいる(同じ町内の)レビ人(民に神様のことを指導する人)を招いて一緒に食べる」こと。

レビ人を支える、という側面と、レビ人の存在によって、単なる食事に陥らないようにする、という側面があるように思います。
「食卓での交流」の中で学ぶことは多いように思います。

自分の加わる食卓が「喜びの場」となっているか、また「神様の恵みが表され」ているか……
考えさせられました。
author:sa-ru(会堂管理人 おさる), category:聖書研究会, 16:46
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聖書研究会「申命記7章」から
昨日の聖書研究会は「申命記7章」でした。
非常に考えさせられる聖句がありましたので、ご紹介いたします。

7:6 あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。
7:7 主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。
7:8 しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。
7:9 あなたは知っているのだ。あなたの神、主だけが神であり、誠実な神である。


直接は旧約のイスラエルの民に対して語られたものですが、
今の私たちにも当てはまると思います。

「主があなたがたを恋い慕って…」
私たちを
「主の聖なる民」
「宝の民」

にしようと招かれているのです。
私たちに、何か取り柄があって、ではなく、神様の一方的な恵みによって、招かれているのです。

私を「宝」と思ってくださる神様って、素晴らしいと思いませんか。
author:sa-ru(会堂管理人 おさる), category:聖書研究会, 19:29
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