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秋の 公開「聖書」講座 の お知らせ
また、更新が滞ってしまいました。すみません。

さて、片岡町キリスト集会では、「秋の 公開「聖書」講座」を開催いたします。
例年は10月に行っていましたが、今回は処々の事情で11月に行います。
「読書の秋」です。「本の本」である聖書に、この秋、親しんでみませんか。

秋の公開[聖書]講座のチラシ

JUGEMテーマ:地域/ローカル



日時 11月18日(日) 午後2時〜3時
入場無料

講師のお名前はぼかさせていただきましたが、肩書で分かる人にはわかりますよね。
ご近所の皆様、ご参加をお待ちしています。
author:sa-ru(会堂管理人 おさる), category:集会案内, 08:02
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人が、ひとりでいるのは良くない
タイトルの言葉は聖書の創世記にある、神様がアダムを創造された時の言葉です。
人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」(創世記2章18節)

関西弁風に言えば、以下のようになるでしょうか。
「アダム……こりゃアカン! だれか、しっかりしたヨメさん、つけてやらねば!」

ダメなアダムが「助けて〜」と言うと、エバが「しっかりしなさい!」と助けに現れる、という構図ですね。

ここはクリスチャンの結婚式で良く読まれる聖書箇所なので、ご存知の方も多いでしょう。

実は、片岡町キリスト集会の方が、明日、結婚されます。

なので、しみじみとこの聖句を読んでいたのですが……ふと思ったのです。

「ひとりでいるのは良くない」は、結婚に限らなくない?

むろん、この箇所はエバの創造に展開していくので、直接的には間違いなく「結婚」のことなのですが、
もっと広く、人間関係全般に捕らえることもできるのではないかな、と思ったのです。

「ひとり」は気楽です。
「ひとり」なら、気兼ねも遠慮もいらない、
他人との軋轢や意見・感覚の相違で傷ついたり悩んだりすることもない、
ちょっかいを出されたり、妨害されたりすることもない……。

でも、「ひとりでいるのは良くない」のです。
傷つこうが、思うように進まなかろうが、それでも「ひとりでいるのは良くない」のです。

私たちには、それぞれに、さまざまな能力が与えられている、と聖書は語っています。
そして、それは「皆の益となるために」与えられているのだ、と語ります。
「皆(他の人々)の益となるために」……
私たちは、それぞれ「他の人々」の「助け」になるために生まれてきたのだ…ということです。
私たちは、それぞれが周囲の方々の「助け手」なのですね。

絆(きずな)には「傷」が含まれる、という言葉も聞いたことがあります。

人と人との絆には傷がつきものです。
でも、「ひとりでいるのは良くない」。
お互いが「助け手」として支え合えれば…、思うように進まなくても、
思ってもいなかった素晴らしいことにたどり着く、のではないでしょうか。

人の心に思い浮かんだことのないもの。
神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。
(コリント人への第一の手紙2章9節)
author:sa-ru(会堂管理人 おさる), category:今日の聖句, 16:41
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何についても、先走ったさばきをしてはいけません
聖書に次のような言葉があります。
「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。」 (コリント人への第一の手紙4章5節)

聖書には、人間関係のあり方についての勧めも多数書かれています。
この箇所もそうです。
「何についても、先走ったさばきをしてはいけません」
不完全な人間が、不十分な知識・情報で「あれが正しい、これが間違っている」とさばきをしてはいけない、という勧めです。
正しいさばきをすることができるのは神様だけですから、私たちが他の人をさばくのは越権行為なわけですね。

でも、ついつい、さばいてしまうんですよね。
聖書を「知っている」のと「実行する」のは大違い。
実行は難しいです。
難しい言葉では「非審判的態度」と言うそうです。
さらに難しく感じますねぇ。

ところで、こうした勧めを読むと、「すぐに勝手な理屈でいちゃもんをつけてくる人」に対して、「やっぱり、あの人は間違っている」とさばいてしまいますよね。
でも、この勧めからすると、そうしたことも「先走ったさばき」なわけです。
難しいですよね。

聖書の勧めは、あくまで「神様から自分に」。
他の人をさばくために用いてはいけないのです。
(注:指導の任務のある場合は別。ただし、十分な配慮をもって。)

JUGEMテーマ:日記・一般

author:sa-ru(会堂管理人 おさる), category:今日の聖句, 18:18
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「ヨハネの福音書」の時間表記がローマ時間である、とボクが考える理由
9月4日に書いた記事「『新改訳2017』で、ひとつ不満なこと」で、「ヨハネの福音書」の時間表記には、「ユダヤ時間である」と考える説と、「ローマ時間である」と考える節のふたつあり、ボクは「ローマ時間節」の支持者であると書きました。
それについて、どうしてそう考えるのか、その理由を書いた方が良い、とご指摘を受けましたので、あらためて、書きたいと思います。
たしかに、ほとんど「ユダヤ時間説」しか見聞きしないので、「ヨハネの福音書の時間表記はローマ時間だと思う」と聞いても、「何で??」と思いますよね。
ユダヤ時間説をとる聖書学者の方は「ヨハネの福音書がローマ時間で書かれたという証拠はない」とも言いますし、「共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)がユダヤ時間で書かれているのだから、ヨハネの福音書も同様のはずだ」と言っています。

でも、証拠ではありませんが、ローマ時間だと考える根拠はあります。

ところで、「そもそも[ユダヤ時間]とか[ローマ時間]って何?」という方もおられると思いますので、そこから説明したいと思います。

◆ユダヤ時間
一日を24時間に分けるのは現在と同じだが、この24時間を午前と午後に分けるのではなく、夜の12時間と昼の12時間に分けている。つまり、日没と想定される、現在の午後6時を起点の第0時としており、翌朝の6時で第0時になる。現在の時間表記と6時間ずれる。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)は、この時間表記で書かれている。

◆ローマ時間
現在、私たちが使っている時間表記の12時間表記。

この説明で分かりますでしょうか?
…説明下手ですみません。
たぶん、検索すれば、もっとわかりやすい説明があるかと思います。すみません。

では、本論の「ローマ時間だと考える根拠」を上げていきたいと思います。


1.「ヨハネの福音書」が書かれた時代背景

共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)は、だいたいA.D.50年頃〜60年頃に、まとまって書かれていますが、「ヨハネの福音書」はA.D.85年頃に書かれています。約30年の時間差があります。
共観福音書が書かれた時の、直接の対象読者はユダヤ的背景があるかユダヤの事情がわかる人たちがほとんどでした。そのため、共観福音書はユダヤ時間で表記されています。
しかし、そこから30年経ち、ローマ帝国内で、イエス様を信じる人が爆発的に増え、直接の対象読者はローマ文化圏の生活者になりました。
そうなれば、想定対象読者の文化に合わせた時間表記…ローマ時間で書くのが自然だと思います。

2.地名がローマ表記

上記「1」の実例とも言えますが、「ヨハネの福音書」ではガリラヤ湖のことを「テベリヤの湖」とローマ式に表記しています(6章、21章)。地名がローマ表記であれば、時間もローマ表記となるのが自然です。

3.ローマ時間と考えないと、つじつまが合わない

そう思われる、代表的な記事をふたつ、取り上げたいと思います。
(細かくは、他にもありますが)

[1]4章後半の「王室の役人の息子のいやし」の記事

病気で死にかけている息子をもつ役人がカペナウムという町に住んでいました。この人が、イエス様がカナという町にに来られたのを聞きつけ、やって来て、イエス様に往診(?)をお願いします。ところが、イエス様は出かけて行かずに、その場で息子を癒されました。
その最後の部分は以下のように記されています。

4:51 彼が下って行く途中、そのしもべたちが彼に出会って、彼の息子が直ったことを告げた。
4:52 そこで子どもがよくなった時刻を彼らに尋ねると、「きのう、第七時に熱がひきました」と言った。
4:53 それで父親は、イエスが「あなたの息子は直っている」と言われた時刻と同じであることを知った。

「第七時」・・・ユダヤ時間であれば「午後1時」です。
カペナウムとカナは25キロ程の距離です。人の歩行速度は時速4Km〜5Kmと言われていますから、普通に歩けば5時間〜6時間で行ける距離です。
死にそうな息子が心配な場合、早足になるでしょうから、もう少し早いかもしれません。
午後1時に「直したから、帰りなさい」とイエス様に言われて歩き出せば、その日の夕方の6時頃には、家に着きます。
それなのに、何故、翌日になるのでしょうか?
息子が心配ではなかったのでしょうか?ほんとうに直ったか、早く確かめたい、と思わなかったのでしょうか?
どこで、油を売って、あるいは、羽を伸ばしていたのでしょう?
どういうお父さんなんでしょうか?

ローマ時間であれば、そのまま「夜の7時」です。
これであれば、「夜道は危険なので、一泊して翌朝帰った」ということで、普通に納得できるものになります。

[2]19章最初の「イエス様の裁判」の記事

イエス様は最後の晩餐の後、捕らえられ、一晩中ユダヤ当局の尋問&拷問を受け、翌朝の明け方、ローマ総督官邸に連行されます。
そして、総督による非公式の尋問の後で、正式の裁判が始まりますが、その時間が次のように記されています。

19:13 そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語ではガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。
19:14 その日は過越の備え日で、時は第六時ごろであった。

裁判の開始時間が「第六時」です。
ここから、「裁判」そして「審議」「判決」、それから「処刑の準備」そして「刑場までの連行」があって十字架に付きます。
聖書の記述では、「裁判」「審議」「判決」は非常にいい加減なものであったので、さほど時間は要していないように思われます。
正式の裁判ではあるものの、おそらく判決まで1時間は掛かっていないのではないか(そんな裁判あり?と思いますが)、と思われます。
ですが、「処刑の準備」は処刑場の用意や、人員や道具の手配等、人や物が動きます。いくら手慣れたローマ軍でも1時間は掛かるのではないでしょうか。
そして「刑場までの連行」ですが、十字架刑の一環として、「受刑者に自分の掛かる十字架を背負わせて刑場まで歩かせる」ことになっていたようです。ところが、イエス様は処刑の前段階の拷問が酷く、もはや十字架を背負って歩くことができませんでした。おそらく任務に忠実なローマ兵は、十字架を背負わせて歩かせようとしたでしょう。どれくらいであきらめて、通りすがりの人を徴用したか分かりませんが、通常の所要時間より、数倍掛かる…おそらく刑場到着まで1時間以上…ではないでしょうか。
そうすると、裁判の開始から十字架に付くまで、だいたい3時間くらいは必要ではないかと見積もれます。

「第六時」をユダヤ時間であるとすると、「昼の12時」になりますから、十字架に付くのは「午後3時」ということになりますが…。
マルコの福音書 15章25節には次のようにあります。
「彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。」
全然、時間が合いません。

でも、「第六時」をローマ時間であるとすると、「朝の6時」ですから、十字架に付くのは「午前9時」でピッタリなのです。


以上、これらのことから、ボクは「『ヨハネの福音書』はローマ時間で書かれたと思われる」とする説に同意しているのです。

かと言って、ユダヤ時間説をとる方々を否定するつもりはありません。
そうした方々の幸いな学びでボクは本当に励まされていますので。
時間の表記の問題は、すごく些末な問題ですから、取り立ててて言うほどのものではありません。
なのに、長々と書いてしまいました。すみません。
author:sa-ru(会堂管理人 おさる), category:-, 21:19
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藤岡集会に行ってきました
昨日の日曜日、ボクは藤岡キリスト集会に、おうかがいしてきました。
違う集会に出席すると、お互いに、いろいろ刺激がありますね。
暖かく迎えてくださり、感謝でした。
藤岡集会は、片岡町の集会より、さらに少ない人数で集まっている集会ですが、
神様の守りと祝福があるよう、お祈りいたします。

集会で語られていたことの中で(一部分)、ボクが考えさせられたことを、書いておきます。

ヘブル人への手紙
10:22 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
10:23 約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。
10:24 また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。
10:25 ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。


へブル人への手紙の、ここまでの話し(キリストの卓越性と、それによる確かな救い)をふまえて、「そのようなわけで」と手紙の著者からの「勧め」が、段階として記される。

1.私たちはイエス様の十字架の贖いの業により、きよめられている(きよい立場をいただいている)ので、

2.神様に信仰をもって近づこう(神に近づく思いを持とう)

3.神様は祝福を約束しており、神様は真実だから、希望をもって進もう
 (私たちの目に見えるモノが絶望的に思えても、希望を失ってはいけない)

4.神様が私たちに求めている「無償の愛と善行」を、心折れずに行おう
 (私たちが「無償の愛と善行」のつもりで行っていることを、
 相手に「何か裏があるんじゃないか」とか、
 「恩を売ってキリスト教に勧誘しようとしているんじゃないか」とか、
 「後でお金をせびられるんじゃないか」といったふうに
 受け取られたとしても、めげずに進もう)

5.動揺したり、心折れたりしないために、定期的にいっしょに集まって、
 「私たちの希望と報いは人ではなく神様にある」ことを確認し、互いに励まし合おう

時々、「神様に近づくと、人から離れてしまう」現象を見聞きすることがあります。
本来は逆で、「神様に近づくと、世の評価に左右されないで、人に真摯に寄り添える」ものなのです。

話しは変わりますが「真摯」と「進撃」って文字の感じがちょっと似てますね。
意味は全く違いますが…。
【真摯(しんし)】[名・形動]まじめで熱心なこと。また、そのさま。
【進撃(しんげき)】[名](スル)前進して敵を攻撃すること。攻撃しながら前進すること。

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author:sa-ru(会堂管理人 おさる), category:できごと, 17:04
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北海道大地震の復旧のため、祈ります
9月6日午前3時8分に北海道でマグニチュード6.7、最大震度7の大地震が発生しました。
ニュースを見て本当に驚きました。
私たちが何回か訪れたことのある函館や札幌等の様子に驚きました。

今月末には、当、片岡町集会の方と、函館集会の方が結婚されるので、函館の方々が大勢、高崎まで来られることになっていましたが、皆様、大丈夫でしょうか。
私の親族も北海道にいるのですが、そちらは「一応は無事」との連絡があり「ライフラインが途絶えたので避難所にいる」とのことでした。大変ですよね。

危険の中にいる方々が助かりますように、守られますように、
また、被害に遭われた皆様に慰めがありますように、お祈りいたします。
まだ、余震も続いているようですし、ライフラインの復旧も、まだ進行形ですよね。
主様の守りを祈ります。

先日の大阪での台風被害、西日本豪雨、といった災害の復旧もまだ途中で、またも大きな災害発生です。
これだけ災害が続く年も珍しいのではないでしょうか…。
でも、東日本大震災から、災害の起こる頻度が上がっているような気がします。
報道のせいではないですよね。

「山々は主の前に揺れ動き、丘々は溶け去る。大地は御前でくつがえり、世界とこれに住むすべての者もくつがえる。……【主】はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである。主に身を避ける者たちを主は知っておられる。
(聖書 ナホム書1章5、7節)

JUGEMテーマ:日記・一般

author:sa-ru(会堂管理人 おさる), category:ニュースから, 23:19
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『新改訳2017』で、ひとつ不満なこと
『聖書 新改訳2017』を読んでいて、ひとつ不満に思うことがあります。
全体的に、すごく良くなっているだけに、ちょっと残念に思うのです。

妻は「そういうことは、言わないほうが良い。全然、重要なことではないし」と忠告してくれていますし、このブログも一般の方向けのものですから、些末な翻訳問題を取り上げるのは、ふさわしくない、とは思うのですが…。

ボクが不満に思うことは、聖書本文の訳文ではありません。
以前にも書きましたが、本当に「原語に忠実かつ日本語として分かり易く」を実現していて、素晴らしいです。

不満なのは「欄外注」です。
「ヨハネの福音書」の「時間表記」の「欄外注」が、ユダヤ時間になっているのです!!
プンプン!!
…そこだけです、不満なのは。
ボクはローマ時間説の支持者なので。

はい、全然、重要なことではありません。
本当に些末なことです。
すみません。

でも、ボクとしては、残念なのですよ。
「ヨハネの福音書」の時間表記について、「ユダヤ時間である」とする説(日本聖書協会はこの説を採用)と、「ローマ時間(現在、私が使っている時間)である」とする説のふたつがあります。
『新改訳聖書』は、このふたつの説を尊重し、原語のまま「第○時」と本文で表記し、欄外注でそのことを説明していました。
なのに今回、本文はそのままですが、欄外注でユダヤ時間だけを記載する、というのは…
「本文の第○時とは、ユダヤ時間で△時だよ」と、言っているわけで、
「ローマ時間説は少数意見だから無視」という態度に思えるのです。
まあ、本文は原語のままですから「無視はしていない」のでしょうが、ちょっと…。

このところ、いのちのことば社等から出版される本に、ローマ時間説が無く、ユダヤ時間説ばかりだと感じてはいましたが…。

些末な、枝葉のことなのですが、ちょっと残念なので、愚痴ってしまいました。
すみません。
たまには愚痴ってもいいでしょう?(たまに、ではない、かな?)
author:sa-ru(会堂管理人 おさる), category:できごと, 20:36
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子ども達の夏休みが終りました
子ども達の夏休みが終りました。

親としては「やれやれ、やっと…」なところもあるのですが、皆様はいかがでしょうか。

休みが終わって、息子は既に学校に通いだしていますが、休み中と顕著な変化があります。
あまりに顕著なので、マジびっくり、なのですが…。
イラつき、キレ易く、物に当たり、家族に暴言…
夏休み中は、こんなことはありませんでした。
また、今までに何度も夏休みは経験していますが、ここまで顕著な態度変化は、今までにありませんでした。
よほど、学校がきついのか…?

先日、警察からの「安心メール」で「夏休み明けの子どもの自殺を防ごう」というものがありましたが、本当に大変なようですね。
いや、先生方や学校がどうとかいうのではなく、生徒とその親を含む社会そのものが歪んで、そのしわ寄せが(先生方のがんばりにも関わらず)生徒達に出てしまっているのではないでしょうか。

つらい方達の受け皿に、私達もなりたいと思っています。


「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたし(キリスト)のもとに来なさい。わたし(キリスト)が、あなた方を休ませてあげよう。」聖書
author:sa-ru(会堂管理人 おさる), category:できごと, 23:40
comments(0), trackbacks(0)
特別集会、無事終了
「夏の公開[聖書]講座」は無事に終了いたしました。

参加してくださった皆様、感謝です。

特に、今回は、講座そのものではなく、案内のチラシに小さく入れていた
「前日8/11にクリスチャン向けの聖書学び会を行います」
をご覧になって、そちらに参加してくださった方々がおられたのが驚き、というか感謝でした。

講師の方を通して、神様から多くの恵みと励ましをいただきました。
また、参加してくださった方々を通しても、神様からの励ましをいただきました。
労してくださった講師の方と、参加された皆様と、神様に感謝です。

イエス様にあって人格が成長させられたい、と思いました。

JUGEMテーマ:地域/ローカル

author:sa-ru(会堂管理人 おさる), category:ご報告, 21:48
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猛暑のせいではない、と言うけれど…
集会所のある隣組の地域の中で、ご高齢の方が2名、相次いで亡くなられました。
ご遺族の方々と少しお話ししましたが、言葉がないですね。
自分自身の足りなさを突き付けられる感じです。
聖書が言うように「死は最後の敵」ですね。
猛暑のせいではない、とのことですが、多少の影響はあるのではないでしょうか?
先日の叔父が亡くなったことも含め、私の身近で他にも数件、亡くなられた方のことを耳にしています。
ご遺族の皆様の上に、慰めと励ましがあるよう、祈ります。

キリストによってすべての人が生かされるからです。
《…中略…》
最後の敵である死も滅ぼされます。

       (第一コリント 15章22節、26節)

JUGEMテーマ:生と死



author:sa-ru(会堂管理人 おさる), category:できごと, 19:37
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